在来線の特急列車が1時間に1本停車する。最寄り駅から路線バスで25分という立地に波香が女将をしている旅館があるが、16室すべての部屋の名前が花の名称になっている和風だが、各部屋の床の間にはそれぞれの花の絵が掲げられている。
その絵は全て亡き先代女将が描かれたもの。芸術性観点からもかなり優れた作品と言われているが、部屋担当の仲居から「先代女将の作品です」と説明をされると驚かれるお客様も多く、その後継を目にすることが何より楽しみという仲居もいる。
夕食時に客室にご挨拶に参上している波香だが、「蓮の間」を訪れた際に予想もしていなかったやり取りを交わすことになった。
その部屋のお客様は60代くらいのご夫婦だが、奥様のお名前が「蓮美」だそうで、ご主人が次のように言われた。
「女将さん、この床の間の絵は素晴らしいですね。先代女将さんの作品だそうですが、妻が蓮美という名前から我が家には蓮の絵がいっぱいあるのですが、こんなに素晴らしい絵はないのです。少々値が張っても構いませんから譲っていただくことは出来ませんか?」
今回のように絵を譲って欲しいということはこ入れまでにも何度かあったが、全て「申し訳ございませんが」とお断りして来ている。それは先代女将が部屋の名称を決め、それぞれの思いを「かたち」として託して描き上げた作品で、波香は殺し文句的な切り札として「先代女将の遺言から」という言葉で収めて来た歴史があった。
今回のお客様は、「遺言なら仕方がないですね」とご納得くださったが、別のお願いをされることになった。
「女将さん、お願いしたいことがあるのです。明日の10時半か11時にはお客さんがチェックアウトをされる筈ですが、その後に各部屋の作品を見せていただけないでしょうか?」
「鈴蘭の間」「桔梗の間」「百合の間」「石楠花の間」「椿の間」「山茶花の間」「竜胆の間」「秋桜の間」「桜の間」「梅の間」「菖蒲の間」「紫陽花の間」「向日葵の間」「牡丹の間」「蓮華の間」とこの「蓮の間」となっているが、波香は「私が全てのお部屋をご案内いたします」と快諾した。
それはこのご主人が女将の作品の素晴らしさをこれまで耳にしたことのない「形容詞」で賛辞くださったからで、先代女将もきっと喜ばれるような気がしたからだった。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、先代女将の遺作」へのコメントを投稿してください。