理奈子が女将に就任してから10年目を迎えたが、若女将からそう呼ばれることになったのは40歳を迎えた頃だったので、最近は更年期障害のような様々な身体の不調を感じて医院や病院に通っているが、どこへ行くのにも夫が車に乗せてくれて付き合ってくれるので有り難くて感謝している。
昨年の師走を迎えてすぐのことだった。夫婦2人で三重県の温泉へ出掛けたことがあった。在来線の特急列車で名古屋まで出て、そこで近鉄特急に乗り換えて山間部にある名湯として知られる温泉へ行ったのだが、この温泉地の歴史は古く、平安時代にすでに湯磁場として存在していたとも言われ、温泉通の世界では三名泉の一つとも広がっているので訪れる人も多かった。
行くことになったきっかけはご夫婦でご利用くださった方から聞いたことで、「お米が違う。一度行って食べてご覧。全然違うのが分かるから」というアドバイスからだった。
そんなところからご夫婦が推薦してくれ旅館に予約を入れ、近鉄線の最寄駅からタクシーで訪れたのだが、部屋に通されてから何かおかしな感じがしてならない夫婦だった。
「おかしいな。静か過ぎる。なぜだろう?」「そうね、玄関横に京都ナンバーの車が1台だけ停まっていたのを見たけど」
そんな疑問の会話の現実を知ることになったのは、それから30分ほど経って理奈子が大浴場に行った時で、省エネからか廊下の天井の蛍光灯が半分消されているし、部屋から廊下を通ってエレベーターを使って降りて来たが、その間にお客さんもスタッフの姿も見ることなく、どこも閑散とした感じだったからだった。
脱衣場に入ると着替えを入れておく籐の籠の中に浴衣が入っているのが目に入り、どうやら先客があるようでホッとしたが、浴室へ入ると湯船の中に高齢の女性が一人だけポツンと入っていた。
「私、京都から夫婦で来たのだけど、この旅館、嘘みたいに空いているわね。部屋に案内してくれた仲居さんの話によると30室もある旅館なのに、今日のお客さんは2組だけだそうで、私達夫婦とあなたということになるわね」
女性は理奈子が湯船の中に入ると同時にそう語り掛けて来た。理奈子は自分が長野県から来たことを伝え、「余りにも静かで寂しいですね」と返すと、「寂しいよりも何か怖いわよ」と表情を強張らせてそう言われた。
「夕食は部屋食なので分からないけど、朝食はレストランと聞いているので明日の朝には他のお客さんがいるか分かるかもしれないわね」
「私達は、ここの御飯のお米が素晴らしいと聞いて楽しみにして来たのですが、聞かれたことがありますか?」
「知らなかったけどそれじゃあ私達も期待してみますわ」
そんな会話を交わして別れたが、部屋に戻って夫にその話をすると、夫も大浴場で一人の男性と会って同じような会話になったそうだが、どうやらお会いした女性のご主人のようだった。
そして部屋食での夕食になった。様々な料理が次々に出されたが、夫婦の今回の目的で楽しみしているのは「御飯」で、そのひとときを迎えて味わうことになったが、確かに進められただけあって美味しい米で、この米の名柄を何とか調べて帰りたいと思っていた。
次の日の朝、朝食でレストランに行くと大浴場で会った人物が先に来られており、すでに食事を始められていたが、「確かに御飯のお米は美味しかったわ」と感想を教えてくれたが、他にお客さんの姿はなく、2組だけというのが事実だったことが判明した。
チェックアウトする時にフロントにいたスタッフが「お米の名柄」をすんなりと教えてくれてびっくりしたが。それから1ヵ月も経たない内にその旅館が閉業したニュースを知った。
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