夫が社長を後継するようになって10年が過ぎた。当時に若女将と呼ばれていた登喜恵も女将と呼ばれる立場になった。先代女将は時折に顔を出されるが、日常の大半は先代社長の身の回りの世話に明け暮れている。
先代社長が大病を患って救急車で運ばれたのが10年前だったが、診察を受けたら脳出血で、緊急手術で一命を取り留めたが、重度の障害が残ってしまっていた。
手術入院してからリハビリ専門の病院へ転院した時に登喜恵が見舞いに行ったが、半身不随という重い症状の上に言語障害まで出ていたので衝撃を受けた。
一生懸命に何とか言葉で訴えようとされていたが、それは旅館の行く末を心配されること。夫を支えて若女将から女将になって頑張って欲しいという重い責務を与えられた。
病室には先代女将もおられたが、リハビリで歩行器を使用することになったのだが、右側の壁にぶつかってしまうのでおかしいと思って担当医師に相談したら、次のように言われ二人がショックを受けたことが忘れられない。
「お酒を飲み過ぎると千鳥足になったりするでしょう。患者さんはお酒を飲まなくても同じ状態になっているのですね。運動を司どる神経機能が麻痺してしまっていると思われますが、これはしっかりとリハビリを続けるしか対処はありません」
先代社長は若い頃から高血圧症状と指摘され、血管年齢も随分と高齢化していると診断され、適当な運動療法と併せて血圧降下剤と血液をサラサラにする薬を服用するようになっていた。
そんな先代社長が最も恐れていた脳疾患で倒れてしまった。女将をはじめとする周囲の人達が驚いたのは当然だが、入院してからしばらくすると夫が知人の大工さんに依頼して先代社長の家の中を完全なバリアフリー工事を進めた。
退院後は先代女将が身の回りの世話をするようになったが、介護士の資格を有したヘルパーと契約をして二日毎に手伝って貰っている。
老老介護という言葉があるが、それは独特の寂しくて悲しい響きがある。あれだけ活発に輝かれていた先代女将が急に老けた感じもする最近だが、夫である現社長は旅館のことは任せてと言って安心させていた。
こんな体験から学んだことだが、お食事の時に薬を服用されるお客様も多く、薬によっては避けなければならない食材もあるところから対応が必要だが、これが微妙に個人情報に関係するので簡単ではないので難しいのだ。
血液サラサラ系の薬を服用する人には「グレープフルーツ」「納豆」「ほうれん草」を避けなければならず、仲居達がさりげない会話から情報を入手して女将を通して料理長に知らされるが、そんな薬を服用されているご本人が「初耳だった」ケースもありびっくりした出来事もあった。
お客様が急な体調不良を訴えられることも考えられる。そんな電話があったらすぐに部屋に参上して「救急車を依頼しましょう」と提案するようにしているが、幸いにしてこれまでそんな問題は起きていない。
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