益恵が女将を務めている旅館は、北海道の中央部分にある秘湯として知られる温泉地にあった。
部屋数は17室で小規模だが、この地の宿泊施設では最も部屋数が多く、やって来られるお客さん達は温泉好きな人ばかりで、1泊の滞在中に6回も入浴した人もあり、潤沢な自然湧出の温泉に心から感謝する益恵だった。
その日の夕方、6人で予約されているお客様達が到着された。予約時には交通手段について確認するようにしているが、このお客様は1ヵ月程前に予約され、「貸切バスで参ります」と言われていたので他の旅館をご利用される方もあるのではと思っていたが、やって来たバスはマイクロバスで、運転手の他にアテンダントと呼ばれる若い女性も乗務しており、車内が普通ではないのでびっくりしていると、お客様の一人が「中を見てご覧、面白いから」と言われたので興味を抱いて中に入ったら、そこは想像もしなかった世界があった。
「ファーストクラスが売り物でしてね。彼女がお飲み物のサービスを担当したりするのです」と運転手の人物が説明してくれたが、白い革張りのシートが幾つかあり、まるでキャンピングカーを彷彿させるイメージだった。
定員は9人だそうだが、6人ぐらいで利用するのが一般的で、4時間で税込み48000円という料金で、乗務員を宿泊させる場合は一人15000円の料金が加算されるので、二人なら30000円になるのだからびっくりである。
こんなリムジンバスのサービスを提供しているのは「クールスター」という会社だったが、益恵は初めてこんなバスがあることを知って驚き、観光の環境情報を学ばなければいけないと感じる出来事となった。
今回の乗務員は宿泊しない行程になっており、当館で2泊されたお客様を2日後の朝に迎えに来てくれるそうだが、こんな交通手段を選択されるお客様達が普通じゃないと思ったのも当然だった。
「お世話になります。よろしくね」と白髪の上品な言葉遣いの人が丁寧にあいさつをしてくれたが、フロントで書いていただいた宿泊者カードの字もびっくりするほど達筆で、いよいよ普通じゃない感じが強くなった。
「ここの温泉はね、温泉通の人達に有名なところでね。私も前から楽しみにしていたのですが、『絶対にお勧めです』と教えてくれた神崎さんにお土産を持ち帰ることを忘れないでください」
ロビーでそんな挨拶をされ、やがて2部屋の鍵を持って廊下を先導して案内をした益恵だったが、神崎さんという名前が何処かに記憶している感じがしてならず、頭の中の引き出しを順に開けながら思い出そうとしていた。
部屋の案内が終わってからフロントに戻り、事務所にいたスタッフに「神崎さんて誰か憶えていない?」と確認したら、昨年の秋に団体で来られたお客様の中におられた方で、温泉通の会の役員さんだったことが判明したが、スッキリしたと同時にこのリピーター的な紹介のお客様にご満足をいただかなければと心新たにした益恵だった。
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