美津子が女将を務めている旅館は関西の奥座敷として知られる温泉地にあり、高レベルな料理で知られていた。
オーナーは美津子の父だが、数年前に病気で亡くなり、父と共にこの旅館を開業した共同
父と料理長の出会いがこの旅館のオープンにつながった歴史でもあるが、料理長は20年前頃のテレビ番組で採り上げられるようになって全国的に有名になり、この旅館に来る客の大半が彼の料理を目的として来館していた。
そんなところから食材にも拘り宿泊料金もかなり高額に設定されているが、築年数の問題もあり、部屋の老朽化が著しく部屋食ということに逆風が吹き始めていた。
また、競争が激しく厳しい経営状況の見直しから人員削減という所謂リストラを実行しなければならない現実を迎えていた。
美津子は料理長の素晴らしい料理を部屋食で提供したい思いがあったが、対応する仲居の人件費から考えると無理があり、近い将来に客室のリニューアル工事もしなければならず、何とかこの状態を乗り越えなければと思い悩んでいた。
美津子の最終的な決断は部屋食を変更してバイキング形式にすることで、それによる人件費の削減は大きく、英断となるためには料理長の説得という難題が立ちふさがっていた。
「バイキングには絶対に反対です。それがオヤジさんの拘りだったし、それを目的に来られる常連さんもあるし」
「分かっているわ。全て理解した上でのことで、この旅館の経営を続けることを優先させると考えると背に腹はということになってしまうの」
そんな2人の話し合いがこの1周間ほど続いていたが、平行線のまま進むだけで、リニューアルの融資に関して銀行に提出しなければならない事業計画も、その問題をクリアしなければ絶対に難しいという事情も秘められていた。
ある日、料理長が美津子を呼び、お茶を飲みながら提案してくれた策は、料理長らしい折衷案で、この先に明るい光が見えるような思いがした。
「背に腹はという女将さんの言葉が気になりましてね。何か道はないかと考えていたらオヤジさんが10年ほど前に呟かれた言葉を思い出したのです。オヤジさんはね『いつか世の中が変わってバイキングが潮流になるかもしれないが、そうなっても料理人の心だけは残したいものだね』と言われていたのです」
料理長が発想してくれたのは、まさに折衷案というもので、バイキングの会場で全てのお客様に予め拘りの食材を料理したものを配膳しておき、それ以外を自由にバイキングという形式で、これなら料理長を信奉するファンのお客様達にも抵抗が少ないという名案で、美津子の表情が一変して明るくなった。
やがてリストラという辛い責務も乗り越えたが、退職金に上乗せした手当で何とか解決することが出来、それから2か月後には新しいバイキング形式として旅行雑誌で紹介されていた。
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