昼食を終えてから日々の生活のリズムともなっている紅茶のひととき、それは女将の美穂には欠かせない至福の時間だった。
そんな午後の微睡みの時間が急激に崩壊することになったのは、掛かって来た1本の電話からだった。
「女将さん、山水苑の女将さんが助けて欲しいとお願いされています」
それは、まさに予期せぬ出来事だった。受話器を取って美穂が対応すると、いきなり「助けて、お願い」という悲鳴のような叫び声。その主は美穂と昔から仲の良い旅館「山水苑」の女将だったが、「山水苑」は同じ温泉街にあり、歩いて5分ほど離れているだけだった。
「大変なことになったの。調べて貰ったら修理に2日間も掛かると言うのだからどうしようもないの」
叫びみたいに救いを求めるのも当たり前で、温泉旅館の命でもある温泉施設のポンプ設備に不具合が発生、大浴場が使えなくなってしまっていたのである。
「今日が32名。明日が36名なの。救けて欲しいの」
山水苑の女将が美穂に協力を頼んで来たのは美穂の旅館の大浴場の利用で、それしか対応策がないと考えたからであった。
山水苑は17室の規模で、何処の旅館でも夫婦やカップルの利用が大半で、一部屋に4人以上のグループというのは少ない組数が現実だった。
そもそも団体客は大型施設を利用することが多く、山水苑の規模を選択しないので前述の人数となっているが、美穂の旅館は60室ある中規模の旅館で、2年前にリニューアルされた大浴場もかなり広いのでその人数なら何とかなるが、自分が山水苑の女将だったらお客様にどのように対応するかを考えたが、事実を正直に伝えることが重要だし、明日の宿泊予定者には電話連絡をする必要があるとアドバイスをしたら、もうすでに対処したと聞かされた。
「お客様に事情を説明して、遠慮なく当館の大浴場をご案内してください。お飲み物ぐらいは私がプレゼントしてもいいから。浴内タオルもバスタオルもいっぱい用意しておきますからご心配なく」
「どのようにお返し出来るか考える余裕がないので今は甘えるしかないのだけど。本当に有り難う。お世話になるわね」
そんなやりとりから主だったスタッフを集めて打ち合わせを進め、山水苑のお客様達を心から歓迎する姿勢を伝えるために、玄関にその旨を明記した表示をすることも決まった。
お休み処では当館も山水苑のお客様にも缶ビールやソフトドリンク、そして子供さんがおられたらアイスクリームの対応も準備するように命じておいたが、お休み処で不要な備品を片付けて出来るだけ広く使えるような対応もすることになった。
温泉を売り物にする旅館やホテルでは定期的にメンテナンスを行っているが、ポンプが故障するなんてことは想定外の出来事。美穂もこんなハプニングが発生しないようにメンテナンスにより以上に神経を遣うようにしたし、そんなことが起きた際のマニュアルについて検討することも始めていた。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「フィクション 女将、「助けて!」に応える」へのコメントを投稿してください。