大規模なホテルや旅館では館内にクラブや居酒屋などを設けて食博客が外に出掛けないで館内で飲酒や夜食を楽しめることもあるが、紀代子が女将をしている旅館は最高でも30人程度のご利用なので、そんな設備は存在していなかった。
しかし。各部屋に温泉街の地図と情報が分かり易く案内するプリントがあり、そのファイルの中には各店舗の特徴、営業時間、メニュー。価格が掲載されているので宿泊のお客様が下駄を鳴らして出掛けられることも多かった。
温泉街で午前1時まで営業している蕎麦屋さんとラーメン店が人気だが、男性ばかりのお客さん達は居酒屋やスナックに行かれるケースもあり、案内プリントには当館のお客様は10%割引きとなっていた。
そんなお願いに各店舗を夫である社長と2人で回ったのは6年前のことだが、それはそれぞれの店舗が歓迎してくれている事実があるし、何よりお客さんが利用される行動になることが嬉しいことである。
厳しい冬の季節は無理だが、それ以外は浴衣と丹前や羽織で散策可能である。お土産の品を館内の売店で購入いただければ売り上げになるが。それよりも温泉街をぶらぶらと散策していただくことも楽しい思い出として印象に残る筈。そんな途中で土産物店に立ち寄られることも当たり前のことで、紀代子の旅館の浴衣を着られたお客様を温泉街で見掛けると、それぞれの店舗が温かく歓迎の言葉を掛けてくれることもあって友好関係につながっているのである。
これは館内に様々な施設のある大規模なホテルや旅館を利用した方々には味わえない体感で、外に出掛けられる人が数える程しかないからである。
スタッフ会議の中で蕎麦屋さんとラーメン店に出前をお願いしたらどうかという提案もあったが、社長は館内に持ち込んで提供した場合には責任という問題が生じることも想定されたところから却下となった経緯もあった。
温泉街の散策を売り物に考えた背景には、3箇所ある外湯の存在だった。お客様の中にはそれを楽しみに来られている方もあり、浴衣姿で外湯セットの入った手提げ袋も喜ばれている。
さて、紀代子の旅館の大浴場の浴室の床は滑らないようになっている。この対策工事をしたのは4年前で、足を滑らせて後頭部を強打されて救急車で病院に運ばれた出来事があったからだった。幸い脳震盪でしばらくすると回復され、検査の結果も問題ないということが判明したが、その時に紀代子夫婦がどれほど心配していたかは想像以上のものだった。
温泉の成分は床に滑り易くなる問題が生じる。温泉旅館の大浴場の浴室で転ばれて頭部を強打して亡くなられた不幸な事件も少なくないが、そんなことが絶対におきないように対処するのも重要なことである。
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