江戸時代から続く歴史ある温泉地だが、綾香が嫁いで女将をすることになった旅館は昭和の初めに開業したもので、3年前に亡くなった先代女将の後継として若女将から女将となったものだった。
夫が社長をしているが、会長として先代社長が残っている。数年前に不治の病を患って手術を受け、再発して先月から都内の大学病院に入院している。
旅館からは都内まで在来線の特急列車で1時間半なのでそう遠くではないが、見舞いから帰った夫が綾香に「話がある」と隣接している自宅で話すことになった。
その内容はびっくりするもので、会長が「終焉を過ごす病院」として転院を懇願され、数日後に転院することが決まったと言うのである。
その病院は会長が数年前にテレビの番組で知って興味を抱き、「最後を迎えるならここだ」と思っていたそうで、病気については本人に知らせていないが、どうやら察知して死期の訪れを覚悟したみたいで、「最後の我儘を聞いてくれ」となったそうだ。
その病院の所在地は房総半島の海の見える高台にあり、開設に関して各診療科の名医と呼ばれる医師達を日本中から集め、最先端の医療体制を構築しただけではなく、これまでの病院とは異なるレベルの発想も多く具現化させていた。
病室にはパソコンが存在し、教えられた患者自身のパスワードで開けたら自分が受けている治療内容や服用している薬の情報などすべてが開示されているし、家族や友人が見舞いに来た際には院内のレストランからルームサービスが可能というのも驚きだが、会長の心が動いたのは霊安室が地下ではなく最上階の海が見える部屋で、「天国に一番近い場所」と考えていたことだった。
そんな病院の登場は地元から大歓迎され、近くにマンションが建設されると他府県在住の高齢者が競って申し込む事実があり、日本で最も恵まれた医療の環境があると話題になっていたからである。
「最後の親孝行だと考えて転院させることにしたのだけど、親父はもう長くないことを悟っているみたいだ。痛みが伴う病状になればホスピスということも考えていたのだけど、本人が希望する病院がよいと決断したから、見舞いに行くのに遠くなるけど了解して欲しい」
そんな夫の言葉に賛同したのは言うまでもないが、そんな病院のことを知っていた会長のことに感心した綾香だった。
旅館からその病院に行くには東京駅で房総方面に行く在来線の特急列車に乗り換えなければならないが、東京駅から2時間弱を要する。
「実はね、ホテルみたいな病棟があってね、部屋代は高額だけど24時間見舞いが可能だし、飲酒も許されているのだからひょっとして親父はそのことを知っていたかもしれない」
高額の言葉にドキッとしたが、金額を確認したら都内の病院の個室料金と余り変わらず、「それぐらい親孝行をしましょうよ」ということになった。
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