すぐ近くに昔から知られている温泉観光地があるが、都留子が女将をしている旅館があるのは30年前に新しく源泉が見つかったところにあり、6軒の旅館が存在する小さな温泉地だった。
6軒の中で最も後から出来た瀟洒な和風旅館だが、料理長が数年前で著名なホテルのシェフをしていた歴史があり、彼の提供する和洋折衷の創作料理が話題になり、ホテル時代のお客様達が来られることもあって結構客室稼働率の高い状況だった。
都留子の旅館に一人の「訳あり」の仲居がいる。30歳を少し過ぎた年齢だが誰もが20代に見違えるような美人で、接遇の品も素晴らしくてお客様の評判もよく、スタッフ仲間や仕入れ先の人達にも人気の人物だった。
「訳あり」というのは彼女が名前を変えてこの地に住んで勤務しているということで、その背景には3年前に夫の暴力問題から逃避して来ている所謂「DV」の被害者であった。
彼女の両親が山陰にある実家で生活しているが、その地の役所と警察署にも相談しており、パトロールの重点対象として対応して貰っている。
ご両親には彼女がこの旅館で勤務していることは伝えているが、それを加害者である夫に伝えることは絶対にないが、やはり人というのは抱いている問題の影を感じさせてしまうことも仕方がないようで、時折に彼女が怯えているような表情を見せると都留子の同情感が強くなっていた。
ネットの募集情報から応募して来た彼女だが、事情を理解して勤務するにあたっては地元の役所や警察署にも相談をしているが、社長である津留子の夫がこの地域の防犯委員の重職を歴任しており、役所も警察側も異例なほど特別に対応して貰っている。
転入届に関しても別名対応となっているし、警察の担当窓口になってくれている人物は何かあったら24時間対応ですからと説明を受け、もしも何かの情報漏れから彼女の存在が知られて拉致されることがあったと仮定した、幹線道路の検問の場所、最寄り駅への連絡と対応だけではなく、隣接している警察署への協力も要請している配慮があった。
旅館のスタッフ達も彼女の事情を全員が知っているところから皆で守ろうという話し合いが行われたこともあり、事務所のスタッフは毎日予約客名簿で彼女の夫の名前がないかを確認しているし、多くない名前なのでもしも予約があった場合には彼女に知らせて確認をするようにしている。
彼女と夫の間に子供の存在がなかったことが不幸中の幸いみたいだが、彼女は両親に孫の顔を見せることも出来ないし、娘として親不孝をしている現状を嘆いていた。
離婚の話を進めても一切受け付けない相手らしいし、もしも離婚することが出来ても被害が及ぶ危険性の高い病的な問題があるそうで、こんな隠れた生活が当分続く宿命を今は受け入れるしかない身の上だった。
そんな彼女が高齢のご夫婦のお客様を接遇する際の態度は優しさが溢れており、それは自分の両親に出来ない分を「かたち」にしているようみ思った津留子だった。
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