市街地から山間部へ車で30分以上も離れた辺鄙な立地だが、昔から名湯として知られる温泉地で8軒の旅館が存在していた。
そんな中間部にある瀟洒な旅館で奈津美が女将をしているが、木造の2階建ての純和風の建物で、この温泉地では高級旅館として知られていた。
奈津美の旅館の特徴に各部屋の換気扇の性能が高いという設備で、禁煙が常識となった時代に喫煙される方もあるので対応のために設置したように思うが、それは相乗効果という産物で、この設備に取り組んだ経緯には面白い出来事が秘められていた。
2年前のことだった。奈津美が各部屋に参上してご挨拶に回っている時だった。高齢のご夫婦のお客様が「旅行が趣味で楽しみ。ホテルではなく旅館が好みで和風の朝食が好きだから」と言われ、「これまでに行かれた旅館であれはよかったというご体験は?」と質問したら、「そうなんだ!」と納得する体験談を聞かされた。
「旅館の朝食に定番なのが御飯、赤出汁、香物、味付け海苔、玉子焼き、豆腐などの他に、一夜干しの焼き魚が出て来る旅館での話ですが、その旅館は一人に一つずつ炭に火が付いた七輪が準備され、部屋担当の仲居さんが『お好きな物をお好きなだけ』と言われて餅箱みたいな物に一夜干しが並べて選択出来たのです。焼き魚大歓迎の妻が喜びましてね、それから毎年行っています」
その旅館は海辺に近かったことからそんな対応をしたのだろうが、聞いただけで焼き魚の香りを感じて想像してしまった奈津美は、その日の内に社長である夫と料理長に相談、2日後には「当館は高級旅館だ。その対応をしよう」と決定し、数日後に工事をして高レベルな換気扇を設置。仕入れに関しては料理長の人脈から最近い海の産物店がたいおうしてくれることになり、七輪、備長炭。網を準備して対応することにしたのだが、お客様から大好評を頂戴し、リピーターとしてご利用くださるお客様もあって喜んでいる。
そんなの朝食を提供する前にも一夜干しの魚を添えていたが、すでに焼いた物を出しており、考えてみれば焼き加減にも好みがあることを無視していた一方通行だったことに気付き、もう一度朝食について検討しようということになって、味噌、醤油、豆腐なども実際に味見をして厳選していた。
「お好きな物をお好きなだけ」と仲居達がお客様の部屋へ運んで行くが、それは仲居達も誇らしげに行動しているみたいで、お客様がびっくりされる表情や、嬉しそうな雰囲気が生まれることが予想外の展開で、体験談を聞かせてくださったお客様が来られたら特別なサービスを提供して、お土産も考えたいと思う奈津美だった。
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