今日はちょっとした知識と知恵に触れておこう。私のような目が不自由な立場や高齢者の場合は、自宅の日常生活で階段を上がったり下りたりする時は手摺をしっかり握ることは重要だが、併せて必ず段数を確認するようにしたい。
我が家の2階への階段は12段なので数えながら移動すると、暗い状態でも間違わないので安全である。
社会には様々な知恵の働きが存在している。駅のホームにいると気付くのが上りと下りの電車を案内するアナウンスの声。一方が男性の声なら一方は女性になり、利用客が混乱しないように配慮されている。
昔、ある葬儀を担当していた時にその地域の長老がお手伝いに参加、受付を担当されることになった。他の人達から「先生」と呼ばれているので何をされているのかと興味を抱いていたら、その人物が書道教室の先生であることが判明した。
受付で預かる香典を香典帳に記録されることを担当されたが、ちょっと覗いたら見事な文字。流石に達筆と驚嘆したのだが、ここで不思議な事実を目撃することになった。
先生は硯で墨を擦ってご自分が持参された毛筆で書かれていたのだが、少しだけ擦っただけで所謂「薄墨」で文字を書き込まれ、疑問を抱かれた隣席の人物がそれについて質問された。
それに対して先生は次のように返された。「本来は普通に書けばよいが、一部の習慣として悲しみ事には薄墨ということもある。それは悲しみに暮れて墨を擦る力も弱くなり、こんなに薄い墨の文字になってしまったという意味と、涙で墨が薄くなったという儀礼的な意味があるとも伝わっているのです」
確か奈良県にある「くれたけ」というメーカーだったと記憶しているが、筆ペンに普通と薄墨の両方が使える優れものがあった。
それを使えば誰もがすぐに薄墨で書けるので便利だが、ある高僧から教えていただいたことに本来の薄墨は普通に墨を擦り、そこに米の「とぎ汁」で薄めて使うというものがあった。
葬儀は起きて欲しくない出来事で「非日常的」なことを行う考え方もあり、様々な不思議な慣習が伝わっている。
「葬儀の使いは一人で行くな」「逆さ屏風」「逆さ晴れ着」「水に湯を足して行う湯灌の準備」などもそうだが、誰がそんなことを決めたのかと考えると興味深いものである。
今日の写真は昨日に食べた「お好み焼き」とは違うが、広島で食べたことのある「広島風お好み焼き」の再掲を。
我が家の2階への階段は12段なので数えながら移動すると、暗い状態でも間違わないので安全である。
社会には様々な知恵の働きが存在している。駅のホームにいると気付くのが上りと下りの電車を案内するアナウンスの声。一方が男性の声なら一方は女性になり、利用客が混乱しないように配慮されている。
昔、ある葬儀を担当していた時にその地域の長老がお手伝いに参加、受付を担当されることになった。他の人達から「先生」と呼ばれているので何をされているのかと興味を抱いていたら、その人物が書道教室の先生であることが判明した。
受付で預かる香典を香典帳に記録されることを担当されたが、ちょっと覗いたら見事な文字。流石に達筆と驚嘆したのだが、ここで不思議な事実を目撃することになった。
先生は硯で墨を擦ってご自分が持参された毛筆で書かれていたのだが、少しだけ擦っただけで所謂「薄墨」で文字を書き込まれ、疑問を抱かれた隣席の人物がそれについて質問された。
それに対して先生は次のように返された。「本来は普通に書けばよいが、一部の習慣として悲しみ事には薄墨ということもある。それは悲しみに暮れて墨を擦る力も弱くなり、こんなに薄い墨の文字になってしまったという意味と、涙で墨が薄くなったという儀礼的な意味があるとも伝わっているのです」
確か奈良県にある「くれたけ」というメーカーだったと記憶しているが、筆ペンに普通と薄墨の両方が使える優れものがあった。
それを使えば誰もがすぐに薄墨で書けるので便利だが、ある高僧から教えていただいたことに本来の薄墨は普通に墨を擦り、そこに米の「とぎ汁」で薄めて使うというものがあった。
葬儀は起きて欲しくない出来事で「非日常的」なことを行う考え方もあり、様々な不思議な慣習が伝わっている。
「葬儀の使いは一人で行くな」「逆さ屏風」「逆さ晴れ着」「水に湯を足して行う湯灌の準備」などもそうだが、誰がそんなことを決めたのかと考えると興味深いものである。
今日の写真は昨日に食べた「お好み焼き」とは違うが、広島で食べたことのある「広島風お好み焼き」の再掲を。
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