高速道路のインターチェンジから国道を20分ほど走り、幹線の県道に入ると上り坂になり、峠を超えたところに20数軒の宿泊施設がある温泉地があった。
その中の一軒が芙美子が女将をしている旅館なのだが、社長は先代を後継した夫が就任していた。
この地の産物で知られるのは蕎麦で、地元の道の駅でも購入する人達が多いそうである。
坂道を下った町の少し手前に夫婦で営業されている蕎麦屋さんがあったが、夫の友人夫妻の店で女将夫婦のお気に入りの店なのに、2か月前から休業となっている。
その原因は奥さんが脳疾患の病気で緊急入院されたからで、今では転院してリハビリに励んでいると聞いたが、半身麻痺という大きな後遺症がどうにもならないようで、パートを雇って店舗をオープンさせる余裕もなく、このまま閉鎖という寂しい現実になってしまうように思われていた。
何の道楽もない芙美子の夫だが、芙美子公認で続けていたことが一つだけあり、それは知人に土地を借りて蕎麦を栽培していることで、蕎麦好きが高じてのめり込んでしまったものだが、そうなった一因に友人が蕎麦屋を経営していることもあった。
収穫した蕎麦をその店へ無償で提供していたこともあったが、そのお返しとして伝授されたのが蕎麦を実際に打つ体験。それが一気に嵌ってしまった夫だったが、いつか自分の打った蕎麦を他人が食べて「美味しい」と言って欲しいという夢があった。
そんな夫がどうにもならなかったのは温かい蕎麦を提供する時の出汁の味。さすがにこれだけはシークレットにされていたみたいでも、トビウオも使っているということだけは知っていた
そんな中、夫が芙美子に話があると提案されたことがあった。それは会計士をしている別の友人のアドバイスから後遺症のある奥さんの将来を案じて「障害年金」の手続きをするべきと伝えて来た夜のことだったが、このまま彼のプロの味を断ち切ってしまうことが残念でならないということで、如何にも夫らしい友情から発想したものだった。
「手打ちの実演コーナーも考えたいし、彼の別格の味も伝承して活かしながら彼の生活の足しになればと思っているのだけど、甘いかなあ」
旅館の主人が蕎麦を打ってお客様に振る舞っているケースは全国で少なくないが、芙美子の旅館もその仲間入りをする訳だが、この話を耳にした芙美子はコーナーの建設費もそう高くないだろうし、お客様の喜んでいただける企画につながるメリットを考え賛同することにしたが、その決断に至った最も大きな要因はこれから介護生活をすることになる彼女の存在だった。
夫の友情の精神から生まれたこの話だが、ひょっとしたら味の探求心からではと思う気持ちもあったが、何かをして上げなければという思いに駆られてすぐに行動することになった。
芙美子の旅館には最上階に展望大浴場があるが、1階にもかなり広い大浴場が存在し、麻雀ルーム、カラオケルーム、軽食コーナーなどもあるが、その麻雀ルームを取り払って夜間オープンの蕎麦コーナーを設置する工事が始まった。
それが完成した頃、リハビリ病院から奥さんも退院され、夜は勤務から戻られた娘さんが介護を担当されるシフトが組まれ、それから10日ほど経ってから蕎麦店がオープンすることになったが、実際に召し上がられたお客様達に絶賛され、1ヵ月も経つと口コミサイトに話題が並んでいた。
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