もう30年も前だから女将の蓉子が若女将と呼ばれていた頃だった。この旅館に嫁いで来て若女将の立場になって仕事をするようになったのだが、想像していた以上にハードで激務だった。
休日も取れないし、年中無休という営業体制が当たり前の業界なので仕方がないが、子供が宿って母となってからのしばらくは大変だった。
そんな蓉子が結婚する前から夫が拘っている男性化粧品のことを知って驚いたことがあった。
夫は現在この旅館の社長を務めているが、結婚した当時は若旦那と呼ばれており、旅館組合の人達と大阪市内で行われた研修会に参加。その時に出逢った化粧品に拘り始め、それ以外は一切使わなくなり、夫の交流のある人達から夫の「香り」への拘りは有名になっていた。
研修会の大阪の夜に宿泊していたホテルから出掛けたのはサウナの世界で超有名なニュージャパンで、サウナ、入浴、マッサージと進んで最後に鏡のある化粧室で整髪をするのだが、そこに置いてあったヘアートニック、ヘアーリキュッド、アフターシェーブローションの香りに衝撃を受け、それから戻ってから遠方の町のデパートに出掛け、全て探してその製品に拘り始めたのである。
その香りは今で言うところの「柑橘系」で、グレープフルーツの香りがしているものだったが、夫は小瓶のオーデコロンまで購入し、いつも持ち歩く程お洒落をしており、飲みに行ったクラブなどで「いい香りですね」と言われると嬉しくなるそうで、「私の香りだ」と言ってプレゼントをすることもあり、小瓶が10個入ったセットがすぐになくなってしまうので補充注文するのは蓉子の役目となっていた。
そのメーカーは「4711」で「フォーセブンイレブン」というドイツの製品で、世界的に有名な存在でもあった。
フランス語の「オー・デ・コロン」を日本語に訳すると「ケルンの水」となるそうで、200年以上の歴史のある「香り」の伝統が続いているそうである。
この拘りは別の話題にも発展している。なぜなら月に2回行く理容店に自分専用として全ての物を揃えて置いて貰っているからで、他のお客様がそれを目にされて「4711を」と言われても誰にも提供しないようになっていた。
夫の友人達から「理容店に置いてある4711だけど、使わせてくれよ」と何人かから懇願されたらしいが、「オリジナルの拘りで私だけの物だ」と頑なに拒否していたみたいで、意地になった人達が同じ物を購入して来てしばらく流行していたが、そう長くは続かずに終わってしまっており、30年以上続けている夫の行動はレジェンドみたいに伝わっているので面白い。
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