都心から高速道路を走行し、最寄りのインターチェンジから県道を30分走って幹線道路に入り、そこから20分というのだからアクセス立地条件が悪い温泉地だったが、新幹線が開通して最寄り駅から20分になったので急に脚光を浴びるようになった。
ホテルや旅館は十数軒しかないが、古くから大切にされて来た温泉情緒のある街並みは結構人気があり、最近では「女子旅」というような若い女性客も増えたので外湯の存在があるところから、様々な柄の浴衣を用意し、自由に選んでいただくことにしているが、玄関で「行ってらっしゃいませ」とお見送りする時に着付け直しをするのも女将の瀧江の仕事で、和服という日本の文化に対して拘っている瀧江のそれは彼女達のお母さん的な思いも重なっていた。
若い女性達の中で予想外に人気になっているのが履物の下駄で、かわいい柄の鼻緒のものを揃えて選択出来るようにしているのも好評だが、温泉街を歩く際の下駄の音の情緒が歓迎されているようで、誰でも履けるように玄関に置かれてある一般的な旅館の下駄や草履とは異質であると自負していた。
しかし、そんなことを始めてから予想外の問題も浮上した。外湯の下駄箱に入れないお客様や、入れても鍵の設備がないことから意図的に履き違えられるケースが続出し、その度に補充するので想定外の費用が発生している。
何度か交友関係のある女将が来館、瀧江の旅館の下駄で戻られたのを持参してくれたこともあるが、日本の文化に造詣深い瀧江は仲居達に下駄の数え方について教えたこともあった。
一足、一揃え、一双、一組が一般的だが、低い歯の物を下駄、歯の高い物を足駄と呼んでいたお化け漫画に出て来る一枚歯の下駄が存在した歴史もあるそうだが、そんな話をすると仲居達が興味深そうな表情で聞いていたのは3ヵ月程前のことだった。
下駄や浴衣の新しい取り組みに着手したきっかけは新幹線の開通で一気に女性客が増えたからで、各ホテルや旅館も様々な新しいサービスを発想して実践しているところもあるが、下駄に関しては瀧江の旅館だけのようである。
この件について全体会議が行われた時、若い仲居から出された意見が採用されたこともある。それは「外湯巡りセット」で、タオルや足袋を入れることの出来る手提げ袋の準備で、上品で如何にも温泉情緒を感じていただけるものが別注されて好評を博している。
サービスの世界で二度と出来ないサービスは絶対にするな」という言葉がある。これは日本を代表する一つのホテルのオーナーがスタッフに教育した際の有名な言葉として伝わっているが、個性的なサービス戦略を企画提案する場合にはその言葉が当て嵌まらないこととになる。
随分昔から各部屋にタオルと共に館内用の足袋を用意しているが、外湯に出掛けられるお客様が持参されて行くことが多くて好評だ。
昔は浴衣を見れば旅館名が入っていたり柄で判別出来たが、浴衣の選択を自由にという旅館が増えたので出来なくなった。こんな温泉地でも時の流れと共に変革しているのである。
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