貸切露天風呂の脱衣場にある花瓶の花を活け、これで女将の節子は昼食タイムとなるが、鏡に映る自分の姿を見ながら髪を直していたら、事務所の女性スタッフが「お電話です」と知らせに来た。
相手はすぐ近くの旅館の社長で、その旅館とは昔から特別な交流があり、数年前から互いの営業展開にプラスとなるということから姉妹館という提携関係もあった。
お客様がご自由に両館の大浴場をご利用可能となっており、前日と翌朝の朝風呂が異なる旅館ということが出来るのでご満足につながっており、この決断は英断だったと思っていた。
社長の電話の内容は「会って話を聞いて欲しい」というものだったが、今春頃から気になる噂が耳に入っており、節子は<ひょっとして?>と想像してしまった。
それは社長の奥さんでもある女将の問題で、仕入先や観光組合の事務局でも話題となっていた。
「お忙しい中、ご迷惑を掛けます」と申し訳なさそうに姿を見せた社長だが、随分と疲れた感じで深刻な雰囲気が伝わって来た。
「ご存じだと思いますが、ますます酷くなって来まして、もう限界という状況を迎えているのです」
問題というのは昔から占いが好きだった女将が、1年ほど前から風水に凝り出し、何をするにも知り合った風水の先生に相談するからで、その度に相談料を支払っており、その金額が常識を遥かに超えるところまで至っている事実だった。
「玄関や部屋の花の色までアドバイスを求めるのだから困っているのです。当家は昔から浄土真宗であり、月命日にお参りいただくご住職にも相談したのですが、お開きなった親鸞聖人の教えに占いや迷信に惑わされてならないとあるのに、そんなことに左右されて相談料を支払うこと自体がおかしいと説教くださったのですが、聞く耳持たずという状態で、ご住職から『何か新興宗教に入信してしまったような感じですね』と呆れられました」
宗教者であるご住職の言葉にも効力のない彼女に、節子が何を言っても無理ではないかと返したら、社長は芝居に協力をして欲しいと言うのである。
「残るは女将さんだけなのです。お願いは風水でコロコロ考え方を変える女将の旅館とは一線を引く。姉妹館の締結を取り止めると進言して欲しいのです」
この姉妹館提携で予想外のメリットが生まれたのは社長の旅館で、格式で上位にある節子の旅館と締結を解除したらそれこそ客室稼働率が著しく低下し、存亡の一途となる危険性があった。
そんな芝居で目が覚めるとは思えないし、そんな芝居の役者になりたくない思いはあったが、憔悴した社長の姿を前にすると何とか協力だけはと覚悟し、1時間後ぐらいに参上するということで話しが終わった。
そして社長の旅館で彼女と会い、社長の描いたシナリオ通りに役者を演じた節子だが、それはが想像もしなかった結果を及ぼすことになった。
「風水を止めます。風水で女将さんの旅館との提携を止める予想なんて一切なかったのですから」
彼女は悪い夢から醒めたようだ。風水へ支払った費用は高額な買い物になってしまったが、節子の言葉から現実の世界へ戻ったようで、少し離れて立っていた社長の何とも言えない表情が印象に残った。
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