山口県の温泉地に佳鶴子が女将をしている旅館がある。県内で知られる湯田温泉は幕末から維新に掛けて薩長の重臣や坂本龍馬などが利用した歴史もあり有名だが、香都子の旅館がある温泉地はこれと言って売り物となる特徴的なことがなく、ただ昔から湯治場として
湯の効能が知られており、温泉ファンや高齢者の利用で成り立っていた。
最近の温泉地は若い女性客の誘致に関して積極的になっているが、美肌を売り物にする温泉は全国各地に点在し、この地が特筆するには無理があった。
佳鶴子は2か月ほど前、東京で開催されたホテルや旅館業界向けの研修会に参加、そこで受講した話の内容に興味を覚え、それからずっと実践するようになったが、それは予想以上に女将という仕事に重要だったことを体感することが出来た。
「人の前になると上気してしまって話せなくなる人がいますが、病的な赤面恐怖症でない限り、絶対に話すことが出来るということが二つあります。一つは事故を目撃したことのように自分だけしか知らないこと。もう一つは話したくてうずうずすることなのですが、接客という仕事の立場で重要なことはお客様が気持ちよく話される環境です」
講師が言ったこの話が印象に残り、お客様のお部屋へご挨拶に参上する際に出来るだけお客様のお話を引き出そうと行動していたのである。
チェックアウトの最後のお客様を玄関でお見送りした。このご夫婦は昨夜の夕食時にお部屋へ参上した際、部屋係の仲居と始まった会話が面白く、しばらく立場を忘れて楽しいやりとりを楽しむことになってしまった。
「昨日は『USA』に行って参拝して来てね」「えっ、アメリカへ行っておられたのですか?」「違うよ。大分県だよ」「大分県ですか。大分県にもユニバーサルスタジオが出来たのですか?」「それはUSJで、大阪だよ。我々が行って来たのは『USA』だよ。」「だからアメリカでは?」
そこでご主人がバッグの中から重そうなカメラを出され、デジカメの画面を操作しながら「これを見てごらん」と一枚の画像を見せられた。
それを佳鶴子と仲居が一緒に見せていただいた。奥様が駅のホームの看板の横に立っておられる写真だが、ご主人が「駅の名前を見てごらん。USAとなっているでしょう」と言われ、確認してみると宇佐駅で、間違いなく「USA」であった。
そこから「立派なカメラですね」と佳鶴子が興味を示すと、待っていましたとばかり奥様が話し始められた。
「聞いてくださる。この人の道楽に困っているの。このカメラは国産だけどプロ用の物だし、半年前にネットのオークションドイツ製のライカを落札したのだから呆れてしまったの。景色を撮影するのはこのカメラ。人物を撮影するのはこのカメラなんて、重たいカメラを2台もバッグに入れているのだから信じられないでしょう」
ご夫婦の場合に奥様がご主人の道楽について語られるのは気持ちがすっきりされるみたいで、これまでも何度か体験したことがあるが、日頃に抱いておられる鬱憤をこのように吐き出されるのも旅というものの特別な環境とも言えるだろう。
お客様が何処から来られているかは宿帳で確認可能だが、「昨日はどちらへ?」とか「明日のご予定は?」と伺うのも大切な交流。そんな中で女将が体験して来た情報をプレゼント出来ることもあるので楽しみが増えた佳鶴子だった。
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