夕食の時間はお客様のご要望に合わせて対応し、前以って伺っていた部屋食、食事処、レストランバイキングなどにそれぞれのスタッフが担当している。
「お品書き」の中の茶碗蒸しや天ぷらなど温かいものは「熱い内に」というのが基本だが、お客様の進み具合に合わせるタイミングもサービスの重要な問題となっている。
そんなお食事が始まった時間帯、女将の花恵は事務所でテレビのニュース番組を観てから各部屋のご挨拶に参上するのだが、このニュースを確認しておくことも情報把握の重要な日課となっており、お客様との会話の中で話題になる問題の最新情報を知っておくこともサービスにつながるからである。
前日の夕方からのニュースは、元プロ野球選手だった清原容疑者の保釈にマスメディアが待ち構える放送ばかりで、「こればかりで、日本って平和ですね」と事務職の若い女性スタッフが嘆いていたが、花恵も同感だった。
次の日、あるお客様の部屋へ参上した時、その清原容疑者が入院した千葉県の病院に関する話題が出て。花恵は驚き病院の存在を始めて知った。
「女将さん、この主人はね、命よりお酒という人生を過ごして来ているのです。我々夫婦は昨年まで都内に居住していたのですが、新年を迎えてから千葉県の海の見えるマンションに転居しましたの」
数十人の社員のいる会社を経営されているそうだが、娘婿さんに後継して旅行三昧をする晩年だそうだが、その転居の動機を伺って驚くことになったのである。
「女将さんはご存じですか? 千葉県に素晴らしい病院があるのです。転居したのは最後を過ごすその病院が近いからでしてね、私も夫も同じ思いで決断したのです」
病院の近くにマンションや分譲地の予定があると、すぐに完売されてしまうという事実があると知ってびっくりだが、それがその病院の存在が原因というのだから興味深い話である。
「各診療科それぞれに優れた医師を揃え、治療を受ける患者の情報も部屋に設置されたパソコンでパスワードで確認することが出来ますし、設置されているメニューで注文すれば病室へのルームサービスも可能なのですから」
「私が気に入ったのは、少し料金は必要だが別棟に医師の許可があればアルコールも可能というのが何よりでね、最期を迎えるならこの病院だとなった訳です」
この夫婦のような人達が病院の近くに全国各地から転居して来た人達が多いそうだが、病院の発想にも考えさせられることも多く、旅館の女将としてもう一度見詰め直すことになった花恵だが、奥様が仰った次の言葉が印象に残っている。
「主人はね、お酒が飲めるからこの病院だと思ったみたいですが、私はこの病院の施設の中で『霊安室が地下ではなく最上階の海の見える天国に最も近い場所』という発想に感動して決めましたの」
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