数年前からテレビの旅番組が増えた。その背景には日本の人口の中で特徴的な戦後のベビーブームで誕生した所謂団塊世代が定年を迎える社会事情があり、旅行会社でもそんな人達をターゲットとした企画を多く販売していた。
旅行会社の窓口カウンターを「プレミアム」と称して別に設け、高額だがグレードの高い旅行企画を専門にアドバイスするスタッフを置いているところも登場し、量より質を重視する旅行客を獲得していた。
都市圏から特急列車で1時間という恵まれたアクセスの温泉地に嘉代子が女将をしている旅館があるが、客室数120の8階建ての立派な構えの建物で、それは3年前にリニューアルされたところだった。
嘉代子は2年前にあるテレビ番組に出演したことがあった。それは全国から8人の美人女将が選ばれ、体験談を吐露するという歓迎したくない企画だったが、組合長から「当番みたいに決まったから」と指名され、東京のテレビ局の生放送番組に出演したものである。
1時間番組の中でそれぞれの女将の意見を聞くという企画があった。質問は中国からのお客さんが増えていることに関する問題で、女将達が揃って「お喜びいただけるように取り組んでおります」と答えたのに、嘉代子は「日本の旅館の文化を最優先します。お客様の我儘も出来るだけ対応しますが、礼節に関することで問題があればお断りする姿勢で臨んでおります」と答え、会場にいたゲスト達がどよめく場面も映し出されていた。
この番組を観ていて、今、嘉代子の旅館に勤務している男性スタッフがいる。彼はホテル学校で学んでいたが、嘉代子のこの発言を耳にして「ここで働きたい」と就活を始め、昨年の4月から楽しそうに仕事をしている。
「お客様は神様である」「西を向けと言われたら黙って西を向く」なんて考え方が大嫌いな性格だそうで、「出来ないことに対してはっきりと出来ません」と対応する嘉代子の考え方に感じ入ったのがきっかけとなった訳だが、嘉代子はそんな彼に期待を寄せて入社させていた。
彼はホテル学校時代によく勉強をしていた。外国のホテルサービスについても学び、日本の「おもてなし」についてまとめた論文が高い評価を受け、応募した観光協会の企画イベントで最優秀賞を獲得、副賞となっていた世界一周旅行も体験しているのでお客様との会話の話題も豊富だった。
そんな彼が入社してから間もなくに車内会議で提案したのが「普茶料理」の提供で、料理長がその世界に造詣深かったことから具現化されることになり、今ではこの旅館の人気プランの一つとなっている。
精進料理という言葉を知っている人は多いが、実際に体験されたとなれば少ないのも事実。北陸の一部では親鸞聖人の「報恩講」の「御斎(おとき)」となる「御膳」も知られているが、若い彼がこんな企画を提議して来ることに驚きながら、彼が「人材」から「人<財>」になると確信している佳代子だった。
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