今日のお客様がすべてご到着、それぞれの部屋へ案内されて大浴場に行かれた方もある頃だ。
女将の由紀恵が夕食のメニューの確認に厨房へ行った。最近は食物アレルギーの問題もあるし、予約をされた際に「塩分を控えたものを」「糖分を控えて欲しい」「油物を避けて欲しい」とか要望されることもあるのでお出しする前に最終チェックをするのが由紀恵の仕事で、お客様から伺っているお名前の情報と部屋番号を確認し、料理長に前以て渡されている情報を合わせて問題が起きないようにしている訳だ。
卵、蕎麦、乳製品、甲殻類、小麦、過日、魚、魚の卵、ピーナッツなど多くある事実に驚くが、最悪の場合にはショック状態から死に至ることもあるので要注意で、女将と料理長は食物アレルギーに関するセミナーの講習を何度か受けている。
チェックが済んだ頃、部屋係の仲居達がお茶と茶菓子を出して戻って来たが、最後に戻って来たベテランの仲居が目を赤くしており何かあったことが推察出来た。
「どうしたの? 何かあったの?」という女将の問い掛けに「余りにも悲しくてつい涙が」と返した彼女だが、その事情を聞いた全員が悲しくなってしまい、厨房はまるでお通夜みたいな状態になってしまった。
彼女の話は、ご主人が大浴場に行かれてお部屋におられた奥様から伺った話だったが、2か月前にご主人の不治の病が判明し、余命が1年程度と医師から宣告を受けて思い出作りにあちこちへ出掛けているという事実だった。
「本人も知っていましてね。いつも『また思い出のページが増えたな。有り難う』と言われるのでやるせないのです」と奥様が言われたのです。
それを聞いた由紀恵は、夕食時にご挨拶に参上した際にどんな話題にするべきかと頭を悩ませることになったが、何かよい思い出につながることが出来ないかと考えていた。
そんな時、料理長が「何かお好きな物はないのでしょうか?」と発言、それを耳にした部屋担当の仲居が急いで奥様に確認に行った。
5分も経たない内に戻って来た彼女だが、奥様から伺ったご主人の好物は、河豚の薄造りである「てっさ」で、この山間部の旅館にその食材はなかった。
う。しばらくすると「あった」と相手の電話番号が見つかったようだ。
それは料理長の麻雀仲間だったが、その人物もこの温泉地のホテルの料理長で、そのホテルでは寒い時期限定で「てっちり」を予約出来る対応をしていたことを思い出したからだ。
海辺でない温泉地で「河豚料理」や「クエ鍋」などを提供しているホテルや旅館もあるが、前以って予約しておくことが条件になっており、そんな食材があるとは想像出来なかったが、<もしも>と微かな期待を託して電話をしてみたのである。
「明後日の予約の分が今日入っているよ」と返事があり、事情を話すと「誰かにすぐに届けさせるから」と有り難く協力してくれた。
河豚を調理するにはその自治体の条例によって認可制度が異なっているが、料理長は昔から修行していた当時に河豚の調理を可能だったことも幸いして、届いた食材を早速俎板の上に置き包丁を入れたが、その目の輝きは如何にもプロらしい世界が感じられた。
やがて夕食の時間を迎え、ご夫婦の部屋にも担当の仲居が料理とワゴンに載せて運んで行ったが、由紀恵が別のワゴンに「てっさ」と「河豚のから揚げ」を載せて同行した。
仲居がテーブルの上に配膳した頃を見計らって「失礼いたします」と入室した由紀恵だが、歓迎の挨拶を終えると「担当仲居と料理長からのささやかな歓迎の印です」と料理を差し出すと、「あれっ! これ河豚! こんな山の中で?」とご主人が驚かれ、その配慮を知られた奥様の目が潤んで由紀恵に向かって手を合わせられた。
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