夫が「1日体験」を過ごした時間は3時間ほどだったらしいが、比呂子の目はテーブルの上に置かれた物だった。それに気付いた夫がその一つ一つについて解説してくれたが、それらはじっと聞いていると強迫商法ではないかと感じるような雰囲気もあり、信じ切った夫が嬉しそうに体験して来たことを一気に話してくれた。
「このガラス瓶に入った液体だけど、これはシャンプーをする5分前に頭部に擦り込むもので、何か成分は不明だけど粘着力があるものだよ」
「次にこれだけど、シャンプーでね。一般的に市販されているようなシャンプーの感じで使用すればよいそうだ」
「それが終わると次がリンスで、この香りが中々好みでよかったよ。それからね、乾燥させてからこの専用トニックを振り掛けるのだけど。香りもいいし、頭皮に刺激を感じるので効果が期待出来そうだ」
4種類をそれぞれ3本ずつ購入して来ていた。それだけではなく週に1回の予約で3か月間通うそうで、その分の支払いまで済ませて来たことを知った。
「電話で予約してから行ったらね、受付窓口に感じの良い若い女性がいてね、『こちらへどうぞ』と別室に案内されたのだけど、その部屋には壁に髪の毛1本を何十倍にも拡大した写真が何枚も掲示されており、テーブルの上に顕微鏡みたいなものが置かれ、その横にテレビみたいなものがあったのだけど、しばらくすると別の女性がやって来て『ご案内します』と個室になった部屋に入ったのだけど、そこは理容店のように大きな鏡があって電動のリクライニングチェアがあって、そこに座ったらすぐにシャンプーが始まったんだ」
黒いガラス瓶に入った薬品みたいなものを擦り込んでしばらくしてからシャンプーが始まったそうだが、理容店のように前屈みになるのではなく、美容室のように後方へチェアを倒して上向きでシャンプーをされたそうで、夫にとってそれは初めての体験だったことを知った。
「まあ、丁寧にシャンプーをされたので気持ちよくてね。これならきっと育毛につながるだろうと確信したよ」
比呂子はそんな単純な感想を抱いてしまったことが如何にも夫らしいと思ったが、本人が信じていることも大切なことで日頃のストレスの多い仕事から解放されることもマイナスにはならないだろうと黙認することにして、夫の話に付き合うことにした。
「その部屋での体験が終わると別室に案内されてね。そこは飛行機のファーストクラスみたいな椅子があってね、シートを倒して少し暗くなった空間で目を瞑るひとときを過ごすのだけど、耳元に上質な音質のスピーカーがあってね、そこから小川のせせらぎの音。小鳥の囀りが聞こえ、バックに何とも言えないクラシックの音楽が流れて来るので心地よく、30分ほど聞き入ってしむことになったよ」
「それが終わると、また髪の毛の写真が掲示された最初の部屋に案内され、出されたお茶を飲んでいると白衣姿の男性が入って来て、髪の毛について様々な解説をしてくれたのだけど、5分ほど経つとシャンプーを担当してくれた女性スタッフがやって来てオシボリみたいな物をその男性に手渡したんだ。私におしぼりを持って来てくれたのだと思っていたら違って<あれ!?>と思ったけど、男性はその手にした物を広げて衝撃的なことを言ったのだから驚いたよ」
「あなたの髪の毛ですが。先程のシャンプーで154本抜け落ちておりました。自然に100本程抜け落ちることは問題ありませんが、少し多いようですね。それから周囲の壁に拡大した写真がありますが、あなたの髪の毛がどのタイプと同じか判明することで原因と今後の対処が考えられます」
「そんなことを言って私の抜けた髪の毛を一本取り出して顕微鏡の上に置き、拡大したものがテレビ画面に映し出され、『ご覧ください。あの3番目と同じであることをご理解いただけますね』ちょっと確認してみます」
「そう言って、その男性は体温計みたいなものを取り出して私の頭皮のあちこちに当てて計測を始めたのだけど、『やはりそうでした』と言ってね、横と上部の体温の差があって血液の流れが悪いようだと言われたのでショックだったよ」
ここまで聞くと、夫は相手側の強迫商法のシナリオの術中に見事に嵌ってしまったようだと比呂子は気付いたが、初めに思ったように黙認の姿勢を変えることはなかった。
それから3か月間、夫は毎週特急列車を利用して通っていたが、3回目に行って帰って来た時に持ち帰った代物を目にして娘と2人で大笑いをすることになった。
それは30センチぐらいの立方体の計器で、管が出ており先端が血圧計みたいになっており、その部分を腕ではなく額から後部に巻き付けて収縮させるというもので、まるでお笑いの世界みたいな感じだったが、信じ切っている夫はそれを実行していた姿が忘れられない。しかし比呂子は自分の疑問を伝える行動はせず、「かつら」を売り込まれた時には話し合おうと考えていた。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、夫の行動に 続編」へのコメントを投稿してください。