ある温泉旅館が客室や大浴場のリニューアル工事で3か月間休業していた。工事が予定通り進み、営業を始める1週間前に全スタッフを集めてやりたいことがあった。
それは、社長と女将が相談してスタッフ教育を兼ねてサービスの専門家を招いて指導を仰ぐことだった。
講師を担当する専門家の事務所に挨拶に入ったのはもう1ヵ月前のことだったが、その時に次のように言われていた。
「私が講義をする日までの約1か月間がスタッフの皆さんが自覚される重要な期間となります。受講する前に自分達で考えること。私を迎える時の玄関から始まって、お茶や菓子の出し方。菓子の選択、控室の設え、担当者など、それぞれのシナリオをスタッフの皆さんで決めて貰うことで、当日までの時間こそが教育とも言えるのです」
そんなことを想像もしていなかったが、妙に納得してしまう自分に気付き、リニューアルオープンが新たな旅館サービスの道を切り開けるような気がした女将だった。
今回のリニューアルの対象になっていない場所があった。それは大広間で、3年前に部屋を幾つかに仕切れるように改造工事をしていたこともあり、その会場を使ってスタッフ達を集めて講師を迎える日までのことを伝えた。
講師を依頼してみようと思ったのは、実際にそれを実行して成功した旅館があるからで、女将会の集いでそのことを知ったところから社長と相談して同じ講師を紹介して貰った経緯があった。
そうそう、女将が講師の事務所を訪問した際に始めに指摘されたのが、「あなたの旅館はピンクリボンに登録されていませんね」ということで、それは全国の病院や看護師さん達もメンバーとして活動する団体で、乳がんを手術された女性のために配慮出来る旅館の組織で、そこに加盟していないという指摘だった。
大浴場の利用に際して専用の湯衣を用意するということもあるが、これを機に取り組むことも考えることになり、それも大きな意識改革につながることになった。
そして講師を迎える日を迎えた。この1周間のスタッフ達の緊張振りは想像以上のもので、講師が怖い人だと伝えていたこともあって誰もが恐怖感も抱いて整列して迎えた。
玄関から入ってフロントの所まで移動した講師だが、優しそうな雰囲気でイメージしていた人物観とは全く別人という風貌だった。
まず初めに提案されたのがフロントから客室へ案内される時の対応で、この旅館が庭の池を見ながら女将が点てたお茶が出され、その間に仲居が荷物を部屋に先に運ぶという流れだが、「それはいけないこと」とダメ出しがあった。
「いいですか、荷物は常にお客様と一緒に運ばれるべきで、先に部屋へ行くなど以ての外です」と言うのが講師の指摘で、鍵の付いていないバッグなら一抹の不安感を生じさせるからという考えだった。
観光地の旅館やホテルの和室なら当たり前という流れも絶対ダメと指摘された。それはお食事処へ行っている間に部屋に入って寝具を準備するというものだが、お客さんがいない部屋に合い鍵を使って入ることは絶対にやるべきではないということだった。
もちろん朝食会場に行っている間に寝具の片付けをすることも同じで、スタッフのローテーションも大きく変更することも必要だった。
何も気にせずに昔からこうだからとやっていたことを「間違い」と指摘されると衝撃だが、利用する客の立場で考えてみれば極めて当たり前のことで、講師の提案は、是正するならそれをお客様にご理解いただけるように伝えることが大切で、その旨を明記したプリントを客室のテーブルの上に置くこともアドバイスされた。
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