JR在来線の特急停車駅が昔からの最寄り駅だったが、開通した新幹線の駅が併設されてから一気にお客様が増え、多くのホテルや旅館がリニューアルに取り組んでいる。
新幹線の開通前に駐車場のスペースに新館を建設。1階を駐車場という設計にして、少し離れた土地を契約して駐車場として対応している。そんな旅館の女将を務めているのが玲佳だったが、彼女にはどうにも出来ない悩みがあった。
それは「万の湯」という旅館の名称に似通った「万の井」という旅館があり、聞き間違ったタクシーの運転手さんが誤って送客してしまうことだった。
地元の観光協会を通じてタクシー組合にもお願いしているが、年に数回発生している事実もあり、体験されたお客様のことを考えると心から申し訳なく心苦しく思っている。
両館は宿泊料金が随分と異なっている。「万の湯」は1泊2食付きで25000円から。「万の井」は1泊2食付きで15000円からとなっていた。
どちらも駅からタクシーで10分ぐらいの距離だが、一方は海側に近く、一方は山手だったので間違ってしまうと15分ぐらいタクシーで走ることになり、お客様に無駄な費用を負担させることになるので困っていた。
解決方法は運転手さんが勘違いをしないことになるが、時にはお客様の方が思い違いをされているケースもあり、乗車時に「万の湯ですか?それとも万の井ですか?」と確認しても発生してしまうこともあるので悩んでいるのである。
「万」というのはこの温泉地の昔の地名で、歴史で知られる高僧のお告げで源泉が発見されたという伝説もあり、戦前は「万」の文字の入る宿泊施設が他にも存在していたそうである。
そんな中、「万の井」に行かれたお客様が予約をされていなかったので「万の湯」ではということからタクシーで到着されることになったのだが、玲佳の旅館もそのお客様の予約を受けていなかったことからややこしい問題に発展した。
「向こうの旅館でここだと言われたよ」とフロントスタッフに怒りっぽく言われている。このままでは他のお客様の目に留まって問題が大きくなる。そこで玲佳がロビーのコーナーにあるソファーの席に案内し、お茶を運ばせて事情を伺うことにした。
60代のご夫婦で東京都内に在住され、半月前に電話で予約されたそうだが、控えておられた電話番号を確認すると間違いなく「万の井」のもので、どうやら意図的に予約を受けていない対応をしたらしく、想像出来ることは団体客の予約が入って意図的にという事情が想像出来た。
予約された時の宿泊料金を確認したら、やはり玲佳の旅館の価格ではなく、はっきりと「万の井」を予約されたお客様だということが判明した。
そんなやりとりから玲佳側に責任がないということを理解されたみたいで、「勝手な思い込みからクレームみたいなことを言ってしまって申し訳なかった」と謝罪されたが、新幹線を利用されてこの地にやって来られたこのお客様を何とかして差し上げたい玲佳で、やがてフロントスタッフを呼んで部屋の用意をするように命じた。
宿泊料金は「万の井」に予約された同額で結構ですということで対応したが、ご夫婦は事情が分かってから恐縮されたようで「本当によろしいのでしょうか?」と申し訳なさそうな表情を見せられた。
これも何かのご縁というのが玲佳の心情だったが、空室があったことも幸いしたみたいだが、彼女は何かを体験した時にはそれを広角的に考える性格があり、もしも満室だったらどうなっているだろうかということも想像していた。
玲佳から「万の井」に対して抗議の電話をしなかったが、次の日にチェックアウトされたお客様が立ち寄ってクレームを言われたようで、午前中に「万の井」の番頭が謝罪に来館した。
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