咲子が女将を務めている旅館は「高級旅館」として知られている。1泊2食付きスタンダードな和室でも一人5万円以上であり、利用する人達は限られた人達と思われがちだが人気が高く、一度は泊まってみたいという垂涎の対象となっており、半年先まで予約でいっぱいという状況だった。
料理も産地まで拘っているし、利用した人達が「さすがに」と口コミで紹介されるのでどんどん伝播し、咲子も知らない世界でかなり有名になっていた。
そんな咲子の旅館で他の旅館では絶対にない発想がある。それに気付かせて貰ったのはお客様からで、5年ほど前のことだった。
部屋食となっており、お客様が指定された時間から部屋担当の仲居が食事を運ぶが、先に頼まれていた日本酒とワインを持参した仲居が厨房へ戻った際、采配していた女将に「私の部屋のお客様、丹前をご自分でご用意されておられるのです」と言ったので何かありそうだと興味を抱き、部屋に訪れてご挨拶する時に伺ってみようと思っていた。
各部屋へ食事が出され、デザートの準備をしている頃、咲子はその気になる部屋へ参上することにした。
「失礼します。当旅館の女将でございます」
丁寧な所作で襖の扉を開け、三つ指をついてご挨拶。ご夫婦らしいお2人。上品そうな奥様を見ると、それはそれは素敵な柄の丹前を召されており、仲居がびっくりしたのも理解出来た。
「素敵な丹前をお召でございますね。いつもご旅行にご持参されておられるのですか?」
「あっ、これね。そうなのいつも一緒に旅行することにしているの。旅館の浴衣は毎回クリーニングされて清潔なので問題ありませんが、丹前が気になって仕方なく、ずっとバッグに入れて来ることにしているのです」
そんなことをこれまでに考えたことのなかった咲子だが、言われてみればその通りで、クリーニングの費用は掛かるが、これも拘りのひとつだと半月後に実践してみたら大好評で、「こんな旅館、初めて!」と驚嘆されることになった。
それを機に浴衣を何種類も取り揃え、お客様にご自由に選んでいただくシステムも採用。フロント横には浴衣と枕を選択出来るコーナーを設け、浴衣は宿泊中に何枚でも着替えることを可能にしたが、最高でも3枚以上を着替える方はなかった。
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