千穂子が女将をしている旅館には38名のスタッフが勤務している。その内の22名が仲居だが、家庭を持って近隣に居住している人達もいるし、何かの事情で流れて来て寮生活で勤務している独身者もいる。
世間で言われる「バツイチ」なんて言葉は本人が言わなければ誰も触れない言葉だが、女将は彼女達それぞれの事情を館内の誰よりも詳しく理解していた。
昨夜、厨房で後片付けをしている時に一人の仲居が「女将さん、ちょっとお話が」とやって来たが、ロビーで話を聞いたら九州の実家の父親が亡くなられたそうで、今日がお通夜の日。早朝に出発する彼女に旅館、、社長、女将、スタッフ一同と分けて香典を託していた。
詳しい日程は分からないが、全国的に友人や知人のいる夫によると、彼女の実家周辺の慣習は、お通夜の次の日の朝に出棺し、お骨揚げが済んでから葬儀が行われるそうなので、葬儀当日の朝に出発したら休まれている状態でのお別れも不可能となってしまうので、お通夜に間に合うように帰りなさいとアドバイスをしていた。
社長である夫は事務所の責任者である男性スタッフに命じ、式場が判明したらFAⅩでメッセージを送信するように手配していた。
NTTの型通りの弔電ではなく、弔意が伝わる内容でなければというのが夫の持論だが、その文章は夫自身が考えてメモさせていた。
「当館の素晴らしい仲居である花江さんをこの世に誕生させてくださったことに心から感謝申し上げます。参列は叶いませんが、はるか離れた地からスタッフ一同と西に向かってお念仏にて手を合わせます」
念仏という言葉が出て来たが、それは出発前に彼女の実家の宗教を確認出来たからだが、千穂子は次の日の午後1時前にスタッフ全員をロビーに集め、午後1時の時報に合わせて西に向かって皆で手を合わせていたことがこの旅館に秘められたホスピタリティーの原点のような気がした。
葬儀の3日後に花江が戻ったが、寮で誰かにロビーでのことを聞いたみたいで涙を流しながら戻った報告をしに来た。
その彼女が「お詫びしなければならないことが」と申し訳なさそうな表情を見せる、丁度その時に社長もフロントにやって来て「大変だったね。ゆっくり休んでよかったのに」と優しく声を掛けたが、彼女は託されて持ち帰った香典に関して次のような話を始めた。
「大阪にいる弟も『おかしい!』と怒っていましたけど、私もその地域の理不尽な慣習に強い抵抗感を覚え、地元の区長さんが近所におられるので『おかしいと思います』と伝えて来ました」
彼女はそう言うと1枚の会葬礼状を取り出して見せてくれたが、喪主や親戚一同という文字が入った左半面の上部に次のような枠内文が表記されていた。
「当地の申し合わせにより、香典は社会福祉に寄贈することからお返しはありませんのでよろしくご理解を」
同じ地域に住む人達同士なら理解出来ても、「他府県から参列する兄弟や会社関係者にこの会葬礼状だけではというのが失礼でおかしい」と彼女は抵抗を覚えているのだが、夫は「愚かな人達が香典の本来の意味を知らずにこんな申し合わせをしたみたいだけど、全国各地でこの問題でややこしくなっていると想像するよ。私は理解しているから気にしないでいいよ。無理をせずにまたしっかりとお客様のお世話をお願いします」と返してその場を収めた。
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