女将の佐津紀も50代の半ばを過ぎた。ずっと古い携帯電話を持ち続けているが、これは3年前に先だった夫の形見。これからもスマホに変わることはないだろう。
そんな女将だが、夫が亡くなるまでは典型的なアナログ人間だった。旅館のホームページもスタッフ任せで興味を抱くこともなかったが、パソコンが必須と指摘されたのは2年前のこと。大学卒業後に入社して来た男性スタッフのアドバイスからだった。
今で葉キーボードを自分で叩くことも出来るので自身でも驚いているが、そのきっかけになったのは佐津紀が20年以上に亘って続けて来たお客様の記録ノート。どんな料理が出されて何を残されたかとか飲み物の好みは勿論のこと。部屋に参上した際に交わした会話のことも細かく記入されており、それこそ旅館の宝物というようなお客様情報が満載だった。
そのノートの存在を知ったのが入社早々のスタッフで、「勿体ない」とコツコツとデーターベース創作に取り組んでくれ、予約されたお客様の名前を検索するだけで瞬時に過去の情報があれば画面に出るシステムになっている。
システムが完成したのは3ヵ月前だが、完成と同時にパソコンの打ち込み方や開き方を学び、それこそ50の手習いみたいに挑戦し、今では細かいお客様情報を打ち込むようになっている。
過去のデーターがあるからと勝手に解釈してお客様にリピーターとして歓迎したら危険を秘めていることも知っておくべきで、男女二人連れのお客様はご夫婦か愛人関係か誤って判断したら大変なことになる。
昔、「娘と来ました」と老紳士が娘さんを紹介くださったが、チェックアウト時にひょんなことから娘さんでないことが判明。今で言うところの援交みたいな関係だったのでびっくりしたことがあった。
そんなことが起きないようにと考えたのが部屋に到着された際にご覧いただける案内資料で、次のように少し大き目で目立つように書かれている。
「当旅館ではお客様のご要望があれば床の間をバックに記念写真を撮影させていただき、ご出発の前に下記のような編集対応のうえプレゼントいたします」
掲載されているのはお2人の記念写真に旅館のロゴや宿泊された月日を画像処理したもので、それもIT技術に長けた事務所スタッフが担当してくれたことだった。
「記念写真を撮影して欲しい」と仰るお客様はそれだけでややこしい関係でないことが分かる。だから把握出来た情報の全てを入力しておくことも可能となる。次回にご利用くださった時にもその旨をメッセージカードに書いて歓迎することが出来る。
そうそう、記念写真を撮影されるお客様の場合には同室の方のお名前も記録しておく。なぜならご主人のお名前で宿泊されてから数年後に奥様が娘さんとお2人で来られることも考えられるからで、それが実際にあったことからシステムに加えるようにしたのである。
その奥様が来られ際、玄関でお迎えした時にお顔に見覚えがありリピーターのお客様であることが分かったのだが、前回の時はご主人のお名前で予約されていたのでデーターを発見することが出来なかったのである。
ご挨拶に参上した時、「夫が亡くなりましてね、この旅館のことを気に入っておりまして、病室でもう一度行きたいなあと言っておりましたので娘と参りました」と言われたが、ご一緒に献杯を捧げることになった。
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