小学校の教員をしている川村が4人家族で1泊旅行に行こうと思ったきっかけは、両親の銀婚式を迎えていたことからだった。
自分の車に6人は乗れず、仕方なくワゴンタイプのレンタカーを手配することになったが、両親の希望から200キロ離れた知られる温泉地の観光旅館を選択した。
旅館にとっては6人が1室というのは大歓迎だが、ネットで手配した妻が両親の銀婚を祝う何かサプライズを依頼し、その費用は支払するという電話も入れていた。
母はベッドに抵抗感があり、和室での寝具が条件だったが、孫達と同室で過ごせる旅に心から喜んでいるみたいで、その日を迎えるまでに何度も電話が掛かって来て、毎回楽しみにしていると結んでいた。
子供達も祖父母との旅行は初めてで、旅行先の夕食前に「おめでとう」を伝える内容の手紙を読み上げる演出も考えていた。
そして、その日がやって来た。敢えて高速道路を通行せずに国道を利用。それはネットで調べた情報からで、国道に点在する「道の駅」が話題を呼んでおり、父母が地産地消の食材選びが大好きなところから決めたものだが、それは想像以上に喜んでくれる結果となった。
予約していた旅館に到着したのは夕方の4時半頃。幹線道路から旅館につながる専用道路にセンサーでも設置されているのか、玄関に着く前に女将さんらしい着物姿の女性と他に男女のスタッフが迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、川村様ですね。お待ち申し上げておりました」と歓迎される言葉の響きは心地良い。両親も子供達も期待を一層膨らませて玄関を入った。
チェックインはロビーにあるソファーに寛ぎながら進められた。両親には温かいお茶、子供達にはカルピスのような飲み物が出され、ウェルカムドリンクというサービスのようで、川村夫婦にも両親と同じお茶が出された。
宿泊カードに個人情報を書き込み、それが済むと「お預かりします」と女将さんがフロントのスタッフへ渡し、作務衣姿の仲居さんが荷物を持って部屋へ案内してくれた。
途中のエレベーターの前で館内の設備について説明があり、大浴場とバイキング形式となっている朝食会場を教えられた。
部屋は7階でこの旅館の自慢の一つである窓からの眺望となっている湖畔の情景が素晴らしく、両親はもうちょっと早く到着するべきだったかなと話し合っている。
夕食は部屋食となっている。部屋の冷蔵庫にビールやジュースが入っていたが、しっかり者の妻は持参して来ていたドリンクをすぐに冷蔵庫に入れ、子供達に「気を付けてね」と教えていた。
妻も教員をやっており、こんなところに「らしさ」を感じるが、義父には先から入っていた冷たい缶ビールとグラスをお盆に載せてテーブルに置いていた。
子供達はテレビのスイッチを入れチャンネルのリモコンを奪い合っている。いつもの家庭の情景を彷彿させるものだが、そんな二人を両親が幸せそうな表情で見つめており、川村はこの旅に来てよかったと感じていた。
さて、大浴場、夕食、朝食と何も問題なく過ごすことが出来たのだが、チェックアウトの時にロビーでハプニングに遭遇した。
別のカップルの客が何かクレームを訴えているようで、かなり大きな声なのでロビーに響き渡っている。川村のファミリーの他にもチェックアウトを待つ人達がいる。
クレームは食事処での夕食に出された天ぷらが冷めていたというものだったが、旅館側の言い分は客側が指定した食事時間に客が遅参したからというものだったが、「そのぐらい配慮するのがサービス業だろう」というのが言い分で、聞いていると一方的なモンスタークレーマーみたいに思えて来た。
「私は**の管理職をしている。この旅館を社員が何人も利用している筈だ。私は社内で存在感は大きいからねえ」
「**」は誰もが知る企業である。そんな言葉のニュアンスには幾らか「値引きしろ」という恫喝的な雰囲気がある。<こんな人物と遭わなかったらよかったのに>と思っていたら、そこで予想外の展開が始まった。父がフロントの横に行き、その人物に向かって次のように言ったからである。
「君は『**』の管理職だそうだが、『**』の専務とは友人関係にある。今から電話をして君がどれほど存在感が強いか聞いてみよう。君の部署と名前は何というのかね?」
それを聞いたカップルは表情を一変して逃げるように玄関から飛び出して駐車場の方へ行ったよう。父は「**」の会社とは何の接点もない筈だが、女将さんから感謝される言葉を掛けられ、ただ「方便」とだけ返して笑っていた。
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