最近はビールの名柄も増え、地ビールもブームになっているし外国産のビールも販売されている時代だ。
女将の路子には忘れられないビール事件があった。それはもう十数年前のことだが、部屋食の前に受けていた注文のビールを部屋に届けた仲居が「女将さん」と表情を強張らせて厨房へ戻って来た出来事が発端だった。
仲居の話によると「確かにビールは注文したが、名柄も確認せずに一方的に旅館側が決めたビールを持って来るとはおかしい」というもので、「少なくとも『アサヒかキリンぐらいは聞くべきだろう』と立腹されたものだった。
部屋に参上して謝罪の仕事をするのも女将の務めだが、考えてみればそのぐらいはサービスを提供する場合には必要かもという思いもあった路子だったが、自分がビールを飲まないところから深くは分からないということも事実だった。
「申し訳ございません・行き届かなかったようで、深くお詫び申し上げます」
こんな場合にはまずは平身低頭するのが常識だが、路子の内心には男性2人のこのお客様がそれほどまでに名柄の問題について指摘されて追及されるのか不思議な思いもあった。
過去にビールで苦い体験をしたこともあった。自分で飲まないので分からなかったが、お客様から「冷え過ぎ」とクレームを受けたのである。料理長や厨房スタッフ、また部屋係の仲居達は知っていたが、路子は冷やす方がよいと思い込みをしており、適温を通り越してびっくりするほど低音設定にしてしまい、凍る寸前になっていたからだった。
またビールに関する問題が起きた。路子のビールに対する嫌悪感が強くなるのは当然だったが、そのお客さんは路子が想像もしていなかったことを吐露した。
「女将さん、嫌な思いをさせて申し訳ないね。実は私達2人は酒造会社に務めていてね、偶々出張で隣町の市街に来ていてこの温泉に寄ったのだが、最近に発売した自社のビールを知って欲しい思いがあって無理難題を仲居さんにぶつけてしまったのです。決してクレームではありませんので誤解のないように。正直に言うと、我々も自社のビールはもう一つと思っているのです」
そんな事情を聞いてホッとしたことは事実だったが、路子は次のように返した。
「お客様のお好みの確認をしていなかったのはサービス業として失格でございます。私は一切アルコール類を飲みませんので気付きませんでしたが、お客様のご指摘で意識改革することが出来ました。お陰様と心から感謝を申し上げ、ビールにつきましては私の気持ちとして飲み放題ということにさせてください。それから明日から御社のビールも加えるようにいたします」
次の日の朝、2人がチェックアウトする際、フロントで女将がプリントを開いて見せた。それは事務所スタッフが指摘された日の内に作成したビールのメニューで、アサヒ、キリン、に加えて2人の勤務する会社のビールも掲載されており、地ビールや外国の知られるビールも並んでいた。
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