女将に休日はないと先代女将から言われていたが、妻として母としてという立場で子育てをしながら女将をやっていると本当に大変で、子供達の授業参観にも午後ならお客さんが到着されるまでに帰らなければと気になる自分に疲れている最近だった。
彼女はこの旅館のオーナーの一人娘で、両親の思いもあって後継することになり、入り婿を迎えた歴史もあったが、お見合い結婚した相手も旅館の次男坊で、旅館経営に関しては知識も知恵も備わっている頼もしい存在で、両親の信頼も厚く、彼女にとっても最高の夫として幸せな日々を送っていた。
そんな彼女が悩んでいる問題があった。それは仲居達の間で発生したイザコザで、お客様からいただく心付けのトラブルだった。
この旅館では心付けをいただいた場合は女将が預かり、全スタッフに均等に分け与えられることになっているが、あるお客さんが「これはあなたに贈ったものだからあなたの物よ」と言われて受け取ったことから、それを知った同僚の仲居達で問題となり、ややこしい問題に発展していたのである。
母が第一線で女将を担当していた頃の心付けはいただいた仲居のものとなっていたが、フロント、駐車場係り、土産店コーナー、喫茶コーナー、浴場係り、料理担当、ウェーターやウェートレスなど全スタッフのことを考えると改革するべき意見も強く、20年ほど前から女将が預かって均等にという形式になっていた。
それからしばらくすると疑心暗鬼という意見もあり、いただいた金額に不正はないかということになり、いただいた心付けに領収証を発行するようにしていたが、正直言ってこの領収証を発行するシステムはお客様側からは不評で、社内会議でホテルのようにサービス料をいただいて心付けは辞退するという意見も出ていた。
ホテルでのサービス料は常識として定着しているが、旅館という立場にはまだ抵抗感が生じる危険性が高く、ホテルという冠名称のある宿泊施設は導入していたが、和風旅館で導入しているところは数えるほどだった。
何度も会議を行って検討したが、これと言った名案もなく結論に至ることもなかった。
社長の立場である夫とこの問題について何度も話し合ったが、いつも暗礁に乗り上げるような結果となり、何とかしなければと悩みながら女将の仕事に追われていた。
やがて社長が提案した発想に驚くことになった。それは宿泊料金をアップさせて心付けを一切辞退し、スタッフの給与をアップさせるというもので、仲居頭や料理長を交えて何度も話し合い、半年後から実施ということが決定した。
仲居達の接客対応力のアップ。料理のグレードアップもテーマとなったが、スタッフ達には歓迎する姿勢があり、宿泊料のアップによる集客に関する問題については社長が尽力することになった。
やがて社長が取り組んだのは単なる値上げではなく、何が変わったかをはっきりと訴えることで、送客をしてくれる旅行会社への根回しを始め、HPのリニューアルにも取り組んでいた。
そして半年後を迎えた。今日から心付けは全廃となった。全スタッフがそれを心にしてお客様をおもてなししようという心構えも定着し、リニューアルしたHPが予想もしなかった集客につながり嬉しい誤算ということも起きていた。
その日から6日目のことだった。一人の仲居が女将に「どうしましょう」と相談に来た。手にポチ袋を持っている。どうやら心付けを貰ったようだ。
「どうしてお断りしなかったの」と問うと、「それが『これは私達の気持ちだから受け取らなければならない』と無理矢理に」と答えた。その袋を手にして見てみると驚く粋な表記がしてあった。上部に天眼鏡で見なければ読めないような小さな文字で「きもち」と書かれてあり、下部には「よろしくお願いします **」と普通の大きさの文字で名前が書かれてあった。
小さな文字の「きもち」は如何にも洒落た表現である。この粋なお客様がどんな方かと興味を抱き、お返しするつもりで部屋に参上したが、このお客さんは絶対に返却することを納得されないだろうと想像しながら襖を開けた。
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