21世紀になってから宿泊産業に大きな変化が生じた。温泉地の観光旅館で1泊2食付きが定番だったが、朝食のみというプランも増えたし、ペット同伴可能というところも少なくない。
昔は一人の利用は歓迎されなかったものだが、今では女性の一人旅や男性の一人旅の企画も出ている。
旅行会社のパンフレットにも「一人旅で一室利用の場合」という追加価格設定の表記も多いし、今や常識となっているようだ。
昔は女性の一人利用を警戒する環境があった。それは自殺でもされたら大変だということだったが、そんなイメージをチェックイン時に把握することは不可能だった。
そんな危険性のあるお客様が数日前から予約されることはなく、当日予約が大半で空室があっても「生憎と満室で申し訳ございません」とお断りしたことも多かった。
女将になってから16年になる庸子にはそんなことで忘れられない体験があった。それは若女将から女将と呼ばれるようになって間もなくのこと。当日午後の予約電話で受け入れた女性の一人客だったが、夕食の頃に只ならぬ様子の家族からの問い合わせ電話があり、相手の方は「あちこちのホテルや旅館に電話をされているみたいで、「グレーのコートで髪の長い」という電話から、<ひょっとして?!>と思ったのが始まりで、チェックイン時に印象に残っていたマフラーとイヤリングを伝えたら間違いなく当事者であることが判明。
何とか説得して早まることがないようにと懇願された。詳しい事情を聞くことまでは出来なかったが、結婚に反対されて書置きをして実家を飛び出したことだけは分かった。
この温泉地が思い出の場所だそうで、本人の兄という人物がお母さんを伴って車で迎えに来られることになった。しかし、すぐに出発しても3時間以上も要してしまう。食事を終えて片付けをゆっくり進めても午後9時以上は無理。そこでどうするべきかと庸子が決断したのは電話があった事実を伝えて到着されるまで彼女から離れないこと。担当の仲居に事情を伝えて片付けが終わると同時に部屋へ入った。
最悪の行動をされることはないかもしれないし、もしもされる覚悟があってもチェックアウト後のことかもしれない。しかし庸子が何より思ったことは若い一人の命が終わってしまうこと。それだけは何とか避けなければということから何とか日付が変わる頃に到着されるご家族へのバトンタッチのために頑張ることにした。
10分ほど話したら意外なことが判明した。彼女が脅かす目的で行動したという事実。それを聞いて庸子は安堵したが、もしもそれが事実でなかったらと疑うことも大切で、彼女が抱いていた思いを吐き出して貰おうという作戦に転じた。
「女将さん、自殺なんて馬鹿なことはやりませんから安心してください。結婚を反対されたら駆け落ちすれば済むことですから、そうですよね」
そんなことを言われて家族からの電話を聞いた立場からすると全面的に信用する訳にはいかない。もしもということになれば取り返しが付かなくなるし、自分自身がずっと後悔することになるからだ。
「女将さん、何かのご縁でということからお願いしたいことがあるのですが」
彼女はとんでもないことを言い出した。ご家族がやって来た時に見せたい芝居に協力して欲しいということで、心配して合い鍵で入ったら、そこの欄間に浴衣の紐を括り付けているところだったということにして欲しいと言うのである。
それに対して庸子は珍しく強い怒りの言葉が出てしまった。「いい加減にしてください。ご家族がどれほど心配されて電話を掛けられていたかお分かりになりますか。はっきり申し上げてあなたのされている行為は当旅館にとっても迷惑なことです。第三者に迷惑を及ぼすこともいけないことですのに、その上に芝居に協力なんて出来ることではありません。お母様が来られたら『ごめんなさい』と謝っていただけませんか」
庸子は自分が母の立場だったらどう思うかと考えてそう言ったものだが、陽子の言葉が説教的で結構応えた彼女は「ごめんなさい。迷惑を掛けて申し訳ございません」と畳に額を付けて庸子に謝罪した。
それから1時間ほどでご家族が到着、寝具を2セット追加して朝食を2人分増やすことになったが、チェックアウト時に恥ずかしそうな表情で帰って行った後ろ姿を今でもはっきりと憶えている。
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