今日は終戦の日である。私は戦後生まれなので体験はないが、東南アジアや満州で戦争体験をされた方々の話を聞いたこともあるので絶対に平和でありたいと願っている。
担当した葬儀に参列された戦友の方々が、軍歌を唱和されたことも何度もあったが、元海軍だった人には「海ゆかば」が定番だったので・いつも演奏者を入れることにしていた。
日本武道館で追悼式が行われていた。時報に合わせて1分間の黙祷となっていたが、誰が1分ということを決めたのだろうかと疑問に思う。高齢者にとって目を瞑って1分も無理なことは当たり前。30秒も経てばフラフラするし<まだ?>という思いを抱くことを理解しておきたい。
「1分間の黙祷を捧げます。黙祷!」とアナウンスをしても、それが当たり前のように進めてしまっているが、誰かがアドバイスをするべきだと伝えたい。
では何秒が理想かということになるが、それは黙祷のひとときまでにどんなアナウンスをするかで変わって来る。多くの司会者達に指導した歴史があるが、体感させると全員が納得していた事実がある。
例えばの話だが、葬儀にあって導師が入場した際に「開式にあたりまして黙祷を捧げたく存じます」というコメントがあるが、もちろん宗派によってその言葉が変わることはさておき、次のようにアナウンスがあったらどうなるだろう。
「ご遺影をご覧ください。このお写真は初孫さんが成人式を迎えられた際の記念に撮影されたもので、今から2年前のものです。皆様が初めて故人お会いされたのはいつのことでしたでしょうか? ご最後にお会いされたのはいつのことでしたでしょうか? その時、どんなお言葉を交わされたのでしょうか? どんなご表情をなさっておられたでしょうか? その時のことをしっかりと思い浮かべていただければ・・・」
そんな環境を整えてから黙祷という「偲ぶ」ひとときに入れば「会場空間」が「式場空間」として「神変」させることが出来ているかもしれないと考えたい。
上述のコメントには二重敬語というご指摘があると思うが、敢えて入れさせて貰っている。葬儀という世界は非日常的なことから日頃にしないことを敢えてすることもあるからで、一つの例が弔電の文言で、「御尊父様」や「御母堂様」が三重敬語になっている事実に気付かれるだろう。そんなことを併せてお考えいただければ幸いである。
今日の写真は前にも掲載したことのあるものだが、東南アジアの前線で連合軍が日本兵に投降を呼び掛けたビラであるが、グァム島での横井氏、フィリピンでの小野田氏のように、終戦さえ信じなかった人達も存在したことも忘れてはならない事実である。
担当した葬儀に参列された戦友の方々が、軍歌を唱和されたことも何度もあったが、元海軍だった人には「海ゆかば」が定番だったので・いつも演奏者を入れることにしていた。
日本武道館で追悼式が行われていた。時報に合わせて1分間の黙祷となっていたが、誰が1分ということを決めたのだろうかと疑問に思う。高齢者にとって目を瞑って1分も無理なことは当たり前。30秒も経てばフラフラするし<まだ?>という思いを抱くことを理解しておきたい。
「1分間の黙祷を捧げます。黙祷!」とアナウンスをしても、それが当たり前のように進めてしまっているが、誰かがアドバイスをするべきだと伝えたい。
では何秒が理想かということになるが、それは黙祷のひとときまでにどんなアナウンスをするかで変わって来る。多くの司会者達に指導した歴史があるが、体感させると全員が納得していた事実がある。
例えばの話だが、葬儀にあって導師が入場した際に「開式にあたりまして黙祷を捧げたく存じます」というコメントがあるが、もちろん宗派によってその言葉が変わることはさておき、次のようにアナウンスがあったらどうなるだろう。
「ご遺影をご覧ください。このお写真は初孫さんが成人式を迎えられた際の記念に撮影されたもので、今から2年前のものです。皆様が初めて故人お会いされたのはいつのことでしたでしょうか? ご最後にお会いされたのはいつのことでしたでしょうか? その時、どんなお言葉を交わされたのでしょうか? どんなご表情をなさっておられたでしょうか? その時のことをしっかりと思い浮かべていただければ・・・」
そんな環境を整えてから黙祷という「偲ぶ」ひとときに入れば「会場空間」が「式場空間」として「神変」させることが出来ているかもしれないと考えたい。
上述のコメントには二重敬語というご指摘があると思うが、敢えて入れさせて貰っている。葬儀という世界は非日常的なことから日頃にしないことを敢えてすることもあるからで、一つの例が弔電の文言で、「御尊父様」や「御母堂様」が三重敬語になっている事実に気付かれるだろう。そんなことを併せてお考えいただければ幸いである。
今日の写真は前にも掲載したことのあるものだが、東南アジアの前線で連合軍が日本兵に投降を呼び掛けたビラであるが、グァム島での横井氏、フィリピンでの小野田氏のように、終戦さえ信じなかった人達も存在したことも忘れてはならない事実である。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「平和を願って」へのコメントを投稿してください。