名古屋市内の病院に入院していた先代社長が退院した。数年前から女将の夫である後継者に社長を譲り、会長という立場になってから地元の旅館組合の活動を積極的にしていた。
そんな中で今月初めに体調不良を訴えて医院で診察を受けたら、採血検査の結果で「膵炎」ということが判明。紹介状を書いて貰って名古屋市内の公立病院に入院していた。
絶食を強いられて点滴ばかりの闘病生活となるが、「内緒で食べたら死にますから」と主治医に言われていたので大人しく従っていたが、もしもその言葉がなかったらきっと売店で何かを買って来て食べていたと思うと世話をしていた先代女将が言っていたが、6日間の絶食から少しずつ食事が出されるようになり、超音波やCT検査の結果も良好で、月末に退院出来ることになった。
退院の前日だった。病室に栄養管理士の先生が来室、夫妻で今後の食生活を指導されたそうだが、アルコールと油物は一切避け、「こんなメニューで」とレシピまで書き込んでくれたファイルをくれたそうだが、内容に目を通した会長は「食事の楽しみが限られて最悪になったな」と嘆かれたそうだ。
会長夫妻が在来線の特急列車で最寄り駅に到着する前に車でお迎えに行っていた女将の裕子だが、駅を出発してしばらくした地点にあるコンビニの手前で「あのコンビニに寄ってくれ」と会長から要望された。
何か買い物でもと3人で店内に入って行ったが、会長の目的は「おでん」のコーナーで、店舗の入り口の「おでん始めました」という表記に心が動いたようだった。
会長は「おでん」が大好物で、昔から出汁や味付けも自分でされると先代女将に聞いたことがあるが、自分の好みの品を幾つか注文して「出汁は少な目でいい」と言って支払いを済ませた。
「行儀が悪いけど車の中で食べさせて貰うよ」と先代女将が制するのを無視して食べ始めたが、すぐに車内に出汁の香りが漂って秋の訪れを感じた裕子だった。
戻ってから予想もしていなかったことが始まった。出入りの建設会社の社長を呼んで何か相談をしていると思ったら、大浴場の前にある「お休み処」のコーナーにテーブルをセットしてガスコンロまで用意、どこで探してきたのか知らないが長さ1メートル、幅50センチ程度の長方形の金属鍋をセッティング。「「ここでお風呂上りの夜食としてお客様に『おでん』を食べていただく」と行動を始めたのである。
会長の「おでん」の出汁は北海道の昆布と上質のカツオの他にトビウオのバランスよく組み入れ、そこに惜しみなく日本酒を入れるという代物で、誰もが美味しいという感想の出る自慢の逸品だった。
具材にも拘っており、料理長を通してあちこちから納入させることになり、退院してから3日後には白い割烹着を身にした先代社長の姿が目撃された。
無料で振る舞うのだから経費が掛かるが、社長は「このぐらいの道楽は目を瞑ろう。お客様の評判も上々のようだし」と笑っていたが、夜遅くに大浴場に来られたお客様が「おでん」の存在を知り食べてから部屋に戻り、同室の人達を伴って来るのだから大賑わいで、その日に残った具材は次の日の朝にスタッフ達が食べていた。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、会長とおでん」へのコメントを投稿してください。