どんな仕事でも忙しい時と暇な時があるものだが、「どうして満室になっている時に予約の依頼が重なるの?」と思う皮肉なことが何度もある。「こんなに暇なのにどうして予約の電話がないなんて?」と嘆くこともあるのが世の常だが、登喜子が女将をしている旅館は幸いにも客室稼働率が高く、最も多いお客様は一度ご利用くださったお客様からの口コミの拡がりだった。
「旅館が素晴らしかった」「料理も良かった」「部屋が清潔で大浴場もよかった」「仲居さんがよかってね」「女将さんの人柄がよくて」なんて伝わってご期待をされて来られると考えると恐ろしいが、それはスタッフ全員が嬉しいこと。皆でそう言われるように努力して来ている結果だろう。
3年前に亡くなった先代女将が常々言っておられた言葉を憶えている。「ご利用くださっているお客様がリピーターになっていただけるように接遇すると同時に、その方々から広がったお客様方がお迎え出来るように」ということだったが、この言葉は当館の企業理念みたいに定着しており、スタッフ全員が「経糸」「横糸」となってチームワークをつなぎ、そこに生まれる絆がこの旅館の根幹となっていた。
「経糸」と「横糸」という話は先代社長の法要の時にお寺様が法話で「御経とは『縦糸』と『横糸』が紡がれて」と言われたことを先代女将がコンセプトにつなげた歴史があり、登喜子がこの旅館に嫁いで来て若女将として従事するようになってから何度も聞かされた話しだった。
ぼちぼちチェックインのお客様が来られる時間だと思っていたら、「女将さん、ちょっとお話が」がと料理長がやって来たのだが、その表情から不通でない雰囲気が感じられた。
「実は、入院していた親父が亡くなりまして、明日お通夜になりまして申し訳ございませんが、明日と明後日とお休みを」
今すぐに帰りなさいと伝えたいところだが、今日のお客様の中には料理長しか不可能な特別料理の提供があってどうにもならず、「ごめんなさいね。許してね」と頭を下げる登喜子に、料理長は「料理長の宿命ですから覚悟していまし」と返した。
料理長は奈良県出身で、次男なので喪主を務めることはなかったが、不応の事実を知った夫である社長がやって来て、お通夜と葬儀は夫が仲居頭を伴って参列することが決まり、旅館名と従業員一同で供花を手配して貰うことになり、事務所スタッフが弔電の段取りを進めていた。
社長は料理長に5日でも一週間でも休んでもよいと言ったが、料理長は通夜と葬儀の日だけと返したが、「高齢のお母さんのこともあるから」と、もう1日だけ休むようにと伝えていた。
料理長のいない間をフォローするスタッフが育っている。だから料理長自身も安心出来るのだが、厨房を離れている間に考えられる問題を想定しながら様々なことをアドバイスしていた。
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