山間部にある温泉旅館で女将を務めている志保子だが、実家の母が入院闘病中で、1週間に一度私鉄の電車と新幹線に乗り換えて大都会にある病院へ見舞いに行っていた。
そんな志保子に事務所スタッフの山野が、次回に病院へ行かれた際に立ち寄って来てくださいと言われたのが、彼の妹が嫁いでいる飲食店で、そこは新幹線の駅から近くて地元で知られる鰻料理専門店だった。
最近は鰻に関する話題が多い。マグロの養殖で有名になった近畿大学水産学部が、鰻の味によく似ているとナマズの養殖に取り組んだニュースもあったが、土用の丑の風物詩になっている鰻を母に食べさせてやりたい思いもあり、その店に昼食に立ち寄って持ち帰りの「うな重」を頼んで病院へ行こうと考えた。
その日、朝から山野に地図を書いて貰い、そのメモを持って出掛けることになったが、山野は妹に女将が立ち寄ると電話を入れていた。
駅から歩いても5分ぐらいのところだったのですぐにわかり、繁盛する店内のカウンターの席で鰻丼を注文して食べ、持ち帰りで母の分の「うな重」も頼んだ。
病状が落ち着いてもうすぐ退院という母の言葉に安堵したが、病院食の味付けが薄くて不味いとこぼしていた母が「うな重」に大喜び。病室に漂う香りが心配になって病室の窓を開けて食べさせたが、「こんなところでこんな物を食べられるなんて」と笑顔で幸福感に包まれ、それを目にした志保子はこんな親孝行もあるのだと思うことになった。
さすがに知られる店だけあって味は最高だった。それは母も同じことを感じたようで、その店の名前を伝えると「そうなの。あそこのうな重を食べたかったの。美味しい筈ね」ともう一度喜んでくれた。
そんな志保子が旅館に戻ると、山野が待ち構えていたように「如何でしたか?美味しかったでしょう」と聞いて来た。
「美味しかったわ。最高に。さすがね」まではよかったが、続いて志保子は山野が予想もしなかった感想の言葉を発した。
「でもね、教えて上げなきゃいけないことがあったわ。信じられないことが店内で行われていたわ」
驚いた山野がそれについて答えを待つ。志保子は言って聞かせるように次のように伝えた。
「あのね、母の『うな重』をお願いした時のことだけど、少ししか食べられないので『並』をお願いしたら、店内の隅々まで響き渡るような大きな声で『重お持ち帰りで、並、一丁』と厨房へ伝えたからで、それって、個人情報と考えるべきでないかしら。注文した方は何か恥ずかしい思いをしたわ」
それを聞いた山野はびっくりした。如何にも女将らしい指摘である。すぐに妹に電話をして女将の感じられたことを伝えたら、妹は「考えもしなかったわ。でもご指摘通り個人情報と考えることも大切だし、お客様に恥ずかしい思いを抱かせたらサービス業では失格だわね。有り難う勉強になったわ。女将さんに感謝しますと伝えてね」となった。
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