有里子が女将をしている旅館の最寄り駅はJRの特急停車駅だが、都心から来ると、この駅から先に観光スポットが多く、ここで普通列車に乗り換える人達が多く、3日前に女将会全員で観光組合が制作した観光パンフを駅のホームで配って来たところだった。
駅前や構内でこんな行為をするには許可を必要とするが、JRとの共同企画ということもあり、JR側の許可を得るには問題なかった。
温泉地の由来やホテルや旅館などの宿泊施設、また地元の特産品や名物料理が食べられる飲食店の案内も掲載された情報誌で、午前と午後の2班に分けて200人以上の人達に配った。
ホテルや旅館が建ち並ぶ道は狭いが、少し山側に向かって坂道になっており、最も低い地点にあるのが有里子の旅館だった。
有里子が今日のお客様の予約名簿をフロントで確認していると、事務所の電話が鳴り、スタッフから「上の女将さんからお電話です」と呼ばれた。
「上の」とはこの温泉街の最も高地点にある旅館の別称で、丁度中間点に「中野旅館」が存在しており、「上」「中」があれば「下」もあることになるが、有里子のことは「下の女将」ではなく「入りの女将」と呼ばれていた。
先代の女将が「下の女将」と呼ばれることを嫌い、女将会の集まりで「お願いだから」と懇願してから「入りの女将」と変更された経緯があるが、それは駅から温泉街に入る入り口にあるからだった。
「上の女将」からの電話の内容は何度か温泉街を騒がせた問題で、彼女の旅館の先代社長が認知症を患って時折に行方不明になることがあり、いつも駅側に向かって下って来ることが多く、「入りの女将」の旅館に「見掛けなかった?」と問い合わせがあったのである。
有里子は「探してみる」と返すとすぐにフロントスタッフに命じ、彼を駅側に向かって原付バイクで探すように頼んだ。
「携帯電話を忘れないでね」「行って来ます」と出発したが、それから5分も経たない内に「発見しました」と電話があり、線路沿いの道を歩いているところを目撃して「今、会話中です」と伝えて来た。
それを「上の女将」に連絡をすると、「すぐに旅館の車で迎えに行きますからそれまでお願いします」と言われたので、スタッフにその旨を連絡、車が到着するまで相手をするように頼んだ。
認知症の人が線路内に入ってしまって事故が発生した出来事が報じられていたことがあるが、事故後の賠償問題のこともあって予想外の悲劇になることも考えられる。
この温泉地の最寄り駅の近くにも踏切があって、もしもご本人が事故にでも遭ったら大変と心配していたが、その前に発見することが出来て幸いだった。
その出来事から有里子は有吉佐和子さん原作の「恍惚の人」を思い出していた。映画化されたこの原作だが、テレビ局が何度も放映させて欲しいと懇願しても、有吉さんは頑なに固辞をされ、「この問題は誰もにつながることだから真剣に考えて欲しい」と言われ、映画館に足を運んでお金を払って観て欲しいと言われたそうだ。
テレビで放映されたら寝転んで見ることもあるだろうし、食事をしながらということも可能になる。そんな光景に抵抗感を抱かれた原作者の思いが背景にあったようだ。
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