長い間所属していたクラブの仲間だった人物が亡くなられたことを知った。何度かゴルフをご一緒したことがあり、始めたばかりの私を連れて行って貰ったのが名門コースとして知られていた滋賀県のジャパンエースと朝日野カントリー倶楽部で、互いがスライスボールに悩んでおり、彼はサウスポーだったのでいつも左右に別れてグリーン上で再会というようなラウンドをしていた。
それは30年前のことだったが、一組に一人というのが一般的だったキャディーさんが、そこでは一人に一人ということから一組で4人のキャディーさんを伴うのだから下手では恥ずかしく、「大変なお客さんに付いたわ」なんて会話を耳にしたら最悪となってしまう。
上級者ならフェアウェイのキープ率が高いが、初心者のショットは何処へ飛んで行くか分からない。山の上、谷底、隣りのコースなどボール探しも大変で、それだけキャディーさんの仕事も増えるのだから気の毒となる。
そこそこ上達した頃、私が所属していたコースに友人を伴ったことがあった。その日は早朝から雪が降り、コースの日陰の一部に少しの積雪が見られ、来場するメンバーも少なく、メンバー同伴でなければラウンド出来ない規約があったことから閑散としている日だった。
クラブハウスで朝のティータイムのひとときを過ごしているとキャディーマスターさんがやって来て、「お願いがあるのです」とびっくりすることを言われた。80名のキャディーさんが出勤しているので各コースのディボット跡の修復や草むしり業務を担当させているが、ラウンドに8人のキャディーさんを連れて教育をして欲しいと要望されたのである。
一組に2人のキャディーさんというのがこの倶楽部のシステムだったが、8人も一緒に随行するなんて間違いなく初めで最後の筈。了解してスタートした訳だが、友人達がいつもの状態ではなく緊張しているのが分かるし、「こんなの初めて。堪らんほど緊張するわ」と本音を吐露した人物もおり、その日の前半ハーフのスコアが私以外は最悪だった。
帰りの車内の会話だが、「もうこんな体験は二度とないだろうが、話の種になったのは事実でよかったよ」と言われてホッとしたことを憶えている。
さて、冒頭の人物のことだが、ある時、彼の歴史にびっくりするような過去があることを知った。会食を共にしていたテーブルでの会話からだったが、遠い昔に起きた宇高連絡船の海難事故で知られる「紫雲丸」に乗船していて救出されたというものだった。
紫雲丸は私がこの世に生を受けた1947年に就航した船だが、1955年の濃霧による衝突事故で沈没するまで5回も事故を起こしていたという不思議な歴史があり、「紫雲」という名称は四国にある紫雲山から命名されたものだが、余りにも事故が多いので「死運丸」と揶揄された秘話も伝えられている。
因みに「紫雲」とは臨終時に仏様が来迎される際の「雲」と言われている。
この沈没事故では168名の犠牲者が出ていたが、彼から運よく助かった時の体験談を聞いたが、「人に歴史あり」「事実は小説より奇なり」という言葉を思い浮かべるような内容で、強烈な印象として記憶している。
小学生や中学生の団体が多く乗船していて犠牲になったところから、これを機に学校でのプールを設置への流れが生まれ、泳げる教育が始まったとも言われている。
今日の写真はそんな「紫雲丸」の遭難者の慰霊碑で、高松市に存在している。
それは30年前のことだったが、一組に一人というのが一般的だったキャディーさんが、そこでは一人に一人ということから一組で4人のキャディーさんを伴うのだから下手では恥ずかしく、「大変なお客さんに付いたわ」なんて会話を耳にしたら最悪となってしまう。
上級者ならフェアウェイのキープ率が高いが、初心者のショットは何処へ飛んで行くか分からない。山の上、谷底、隣りのコースなどボール探しも大変で、それだけキャディーさんの仕事も増えるのだから気の毒となる。
そこそこ上達した頃、私が所属していたコースに友人を伴ったことがあった。その日は早朝から雪が降り、コースの日陰の一部に少しの積雪が見られ、来場するメンバーも少なく、メンバー同伴でなければラウンド出来ない規約があったことから閑散としている日だった。
クラブハウスで朝のティータイムのひとときを過ごしているとキャディーマスターさんがやって来て、「お願いがあるのです」とびっくりすることを言われた。80名のキャディーさんが出勤しているので各コースのディボット跡の修復や草むしり業務を担当させているが、ラウンドに8人のキャディーさんを連れて教育をして欲しいと要望されたのである。
一組に2人のキャディーさんというのがこの倶楽部のシステムだったが、8人も一緒に随行するなんて間違いなく初めで最後の筈。了解してスタートした訳だが、友人達がいつもの状態ではなく緊張しているのが分かるし、「こんなの初めて。堪らんほど緊張するわ」と本音を吐露した人物もおり、その日の前半ハーフのスコアが私以外は最悪だった。
帰りの車内の会話だが、「もうこんな体験は二度とないだろうが、話の種になったのは事実でよかったよ」と言われてホッとしたことを憶えている。
さて、冒頭の人物のことだが、ある時、彼の歴史にびっくりするような過去があることを知った。会食を共にしていたテーブルでの会話からだったが、遠い昔に起きた宇高連絡船の海難事故で知られる「紫雲丸」に乗船していて救出されたというものだった。
紫雲丸は私がこの世に生を受けた1947年に就航した船だが、1955年の濃霧による衝突事故で沈没するまで5回も事故を起こしていたという不思議な歴史があり、「紫雲」という名称は四国にある紫雲山から命名されたものだが、余りにも事故が多いので「死運丸」と揶揄された秘話も伝えられている。
因みに「紫雲」とは臨終時に仏様が来迎される際の「雲」と言われている。
この沈没事故では168名の犠牲者が出ていたが、彼から運よく助かった時の体験談を聞いたが、「人に歴史あり」「事実は小説より奇なり」という言葉を思い浮かべるような内容で、強烈な印象として記憶している。
小学生や中学生の団体が多く乗船していて犠牲になったところから、これを機に学校でのプールを設置への流れが生まれ、泳げる教育が始まったとも言われている。
今日の写真はそんな「紫雲丸」の遭難者の慰霊碑で、高松市に存在している。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「訃報を知って」へのコメントを投稿してください。