社長である夫が戻って来た。今日は朝から旅館組合から緊急会議の案内があり、昼前に町の観光課の会議室で会合が行われていた。
女将の恵奈子がフロントでスタッフと宿泊者名簿を確認している時だったが、夫が「話がある」と恵奈子を呼び、ティーラウンジでお茶を飲みながら今日の緊急議題について聞かされた。
それは信じられないことだった。恵奈子夫婦も10年ほど前に北陸方面を旅行した際に宿泊したことのある山城温泉の大規模な「百万石ホテル」だが、数年前に休業してしまった建物に犯罪者が入り込み、銅板や銅線などを取り外して持ち去っていることが判明し、その被害額が10億円にもなるというのだから驚きだった。
2人が利用した頃はお客さんが多くて活気があった。夕食が済んでイベント広場で行われる「お祭り」もスケールが大きく、家族連れの人達が喜んでいた光景が印象に残っているが、数年前に経営状態が厳しいと噂され、やがて休業に至ってしまった事実に同業という立場でも寂しさを覚えていた。
実は、この温泉地にも昨年に廃業した旅館が存在しているのである。後継者がなく木造建築も老朽化して耐震にも問題があるとの指摘から廃業したものだが、恵奈子の旅館にも仲居が一人と厨房スタッフの一人がその旅館に勤務していた事情もあった。
今日の緊急会議で議題になったのはその廃業した旅館の問題で、そのまま建物が残った状態なので不審者が放火事件でも起こしたら大変ということで、地元を管轄する消防署と警察関係者も参加していたことを知った。
全国の温泉地でこのような問題が多発している最近だが、不審火から大火となって類焼から温泉街が変わり果ててしまった出来事もあり、そんなことにならないようにという対策についても議論されたそうだ。
取り敢えずは各組合員が建物の周囲を気を付けて見守るということになったが、そこに隣接するホテルと旅館両社が「組合負担が無理なら組合員に臨時徴収して貰って警備会社に依頼を」と要望も出たそうだが、それについても取り敢えず見積りをして貰うことになっていた。
廃業したその旅館までは50メートルほど離れているが、もしも出火となれば道路が昔のままで狭いところから大きな消防自動車が入れない問題もあり、風向きによっては類焼の危険性もあるし、そんなことになればお客様を誘導することも大変である。
恵奈子は支配人を呼んでスタッフ全員にこの問題を伝え、側を通る時に気を配ることと、万一のことを想定して避難訓練の実施を考えて欲しいと命じた。
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