海に近い温泉地の旅館で伊都子が女将と呼ばれるようになって10年の月日が流れた。十数軒の旅館が存在している人気の地だが、伊都子は女将会の副会長を務めていた。
ある日、チェックアウトのお客様の全てを見送ってロビーの清掃を手伝っていたら、町の観光課から緊急会議が開かれるという電話があった。
女将になってから緊急会議なんて初めてのこと。何が起きたのかと思いながら番頭の山村に乗せて貰って町役場まで行った。
すでに全員が揃っており、旅館組合の組合長の姿もあったが、気になったのは保健所の所長が出席していたことで、すぐにその意味が分かることになった。組合員の旅館で食中毒が発生したというものだった。
「10人ぐらいのお客様が入院されているそうです。幸い症状は軽いとのことですが、今日から3日間の営業が禁止されることになり、今、女将が予約されているお客様に連絡をしているのですが、中には既に自宅を出られている方々もありますし、御不在で連絡が取れないケースも考えられます。組合の方へ依頼されたことは、今日から3日間、予約されたお客様が来館されたら何処かで受けて欲しいというもので、各会員の皆様にご協力を願いたい訳です」
組合長が冒頭にそんな話をして、続いて保健所の所長が今後の対策についての説明、町の観光課長の危機感を訴える話が続いた。
お客様と連絡が付いたとしても、今更予定を変更することが出来ないと言われることも考えられるし、事情を伝える旅館側も別の旅館を手配しますという説明をすることもあり、中にはトラブルが発生したことに割引や特別なサービスを期待するケースもあるかもしれないので簡単ではない。
組合長は20数年前に発生した食中毒事件の体験談を語り、この問題をここに集まる全員が危機感を抱いて対応する必要があると結んだ。
別室で観光課長、組合長、女将会の会長と副会長である伊都子の話し合いが行われ、まずは各旅館の3日間の空室状況について確認することから始められた。
やがて営業停止の期間に予約されているお客様全員がキャンセルしなかってもそれぞれの旅館が空室を提供すれば受け入れが可能と判明して落ち着くことが出来たが、観光課長と組合長の心配事はマスメディアでニュースになることでイメージダウンが避けられないことで、その問題が議題として昼食時間を過ぎても会議が続いていた。
そんな中、階下の女性受付職員から「新聞記者が取材に来ました」と表情を強張らせて報告があり、課長と組合長が応接室で対処することになった。
新聞記者はすでに保健所や病院での取材を行っており、伊都子は逆に知らなかった情報を把握することになったが、食中毒の原因は「牡蛎」の関する貝毒で、料理人達の最も心配している問題だった。
養殖の牡蛎、天然の牡蛎、そんなところに今回の事象が発生した背景があったが、この問題は定期的に保健所で開催される研修会でも指導されたことであり、改めてその恐ろしさを認識することになった。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「フィクション 女将、緊急会議に出席する」へのコメントを投稿してください。