新しいホテルが建設されるとスタッフの募集が行われるが、応募する人達の大半が何処かのホテルに勤務しているという事実があり、新しいホテルで気分一新して勤務したいという動機があることになる。
理奈子が女将をしている旅館に3ヵ月前から勤務している若い男性スタッフがいるが、彼はそんな応募体験で自身を喪失、しばらく鬱病みたいになって神経科のクリニックに通っていた。
彼が1年後に開業する都心の外資系ホテルに応募したのは半年前のこと。他府県の温泉地の有名なホテルの後継者で、ホテルの専門学校を卒業して実家のホテルに勤務していたが、勉強するよい機会だということで応募したのだが、面接時に受けた質問で何も答えられずに自己嫌悪に陥り、戻ってから自室に籠って3ヵ月程過ごしていた。
そんな彼に「気分転換をして来たら」と理奈子の旅館に勤務するように勧めたのが彼の母で、理奈子と随分前から交友関係のある女将だった。
「給料は要らないから1年間預かって教育して欲しいの」と頼まれたのだが、給料も社会保険も全て正社員としてというのが理奈子の条件で、他のスタッフとは別に神経を遣って彼に対応していた。
入社した当初は暗かったが、自己嫌悪に陥った面接時の質問を女将に打ち明けたことから予想外に好転したみたいで、まるで別人のように明るくなって勤務している。
面接官から質問された問題だが、全てがお客様から出るかもしれないクレームに対する対処で、ベテランホテルマンとしての体験がなければ難しいレベルだった。
「そんなの、私や支配人でも対応出来ない問題よ」と答えた理奈子の言葉が彼を回復させることになったのだが、その報告を彼の実家の女将に伝えると、「理奈子さん、有り難う」と、電話口で泣いて感謝をされることになった。
彼は仲間のスタッフや仲居達からも好感を抱かれる好青年で、背負っていた重荷が降ろされた瞬間から人柄が急変して明るくなり、玄関でのお迎えやお見送りやロビーでのお客様対応で存在感があり、理奈子はずっと勤務を続けることが出来たらと思い始めていた。
それから半月ほど経った頃、彼の両親が理奈子の旅館にやって来られて宿泊されたが、後継者が明るくなって勤務する姿を見て理奈子に改めて感謝の言葉を伝えた。
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