先代社長が亡くなったのは5年前だが、後を追うように体調を崩して先代女将も亡くなった。それを機に若女将から女将と呼ばれる立場になった香苗だったが、この旅館の後継者に嫁ぐことになったのは先代社長の縁からで、その経緯はドラマの脚本のような秘話があった。
社長である夫は恥ずかしがりやで女性をデートに誘うようなことも出来ないタイプだった。この旅館は山間部にあるが、坂を下ったところに広がる町の中に、現在は統合されてなくなったが、当時は大手銀行の支店があり、香苗はこの銀行の窓口業務を担当していた。
最近の銀行は一つの窓口で受け付け番号順に業務を進めているが、当時の銀行の内部は当座預金や普通預金などが幾つも並んだ窓口になっていた。
香苗が担当していたのは普通預金だったが、そこを利用していたのが先代社長で、リニューアル建設の際に多額の融資が実行されており、銀行側からすれば大切で重要な得意先という存在だった。
先代社長が香苗を気に入ったのはその笑顔の素晴らしさで、自分の旅館で女将として活動しているイメージを膨らませ、支店長に懇願して息子の嫁にと見合いをするように至ったものだった。
支店長は「彼女は当行の財産です。何より素晴らしいのは仰るように笑顔で、決して作った表情ではなく、内面の優しさがそうさせているのでしょう」と返し、あちこちから息子の嫁にと言われていることを打ち明けたが、その支店長も彼女が若女将や女将と呼ばれて旅館内で仕事をしているイメージを想像しながら、この旅館の将来を考えたら最適ではという思いを共有することになった。
こんなことは早い方がよいというのが社長の考えで、半月後には町の中心にあるホテルで見合いをすることに進んだが、社長も支店長も彼女の恋人の存在など一切考えていなかったのだから信じられない話である。
そのことを言い出したのは先代女将で、社長の話から銀行へ行って自分の目で確かめたら、戻るなり「彼女の笑顔は最高」と賛同してくれたのだが、その時に「彼氏はいないの?」と言ったことから社長が青ざめたという逸話も伝えられている。
見合いは息子の意思など一切聞かれることはなく、両親が「あの子が嫁になって欲しい」というので何も反論することもなく、先代社長が言った次の言葉が殺し文句になったようで、すぐに婚礼のスケジュールまで一気に進んだ。
「お前は頼りない。何れ近い将来に社長になって後継することになるが、旅館の顔は女将であり、彼女が我々の旅館に嫁いでくれたお前の嫁になればそれだけで経営は安泰だ」
香苗の笑顔はずっと輝き続けており、ご利用のお客様の評判も最高で、先代社長の予想通り、頼りない現社長を見事にフォローしており、つい最近に投宿した銀行の元支店長も改めて自分達が進めたシナリオが予想通りだったことを再認識した。
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