前号で書いた「さんふらわー」だが、調べてみると登場当時は「日本高速フェリー」所属で、乗船したのは「さんふらわー11」という船名だったことが判明。今では考えられない豪華な設備で、それだけ高額な建造費が投資されたらしいが、就航して間もなく会社の経営が厳しくなり、譲渡された歴史もあったようである。
日本のフェリーが外国に譲渡されるケースが多いが、韓国で大惨事を起こしたフェリーもそうだったが、前述の「さんふらわー11」もフィリピンに譲渡され、強風によって沈没してしまった事実を知って寂しくなった。
当時は大阪南港から志布志まで14時間。そこから鹿児島港へは4時間で、志布志から車で向かう方が便利なので鹿児島港へ向かう人は少なかったようである。
フェリーを利用して波が高くて大変な目に遭ったことも何度かあった。志布志から大阪南港へ向かう時は出航して5分も経たない内に気分が悪くなり、そのまま大阪南港まで横になったままというのもあったし、大阪南港から宮崎へ向かう「せんとぽーりあ」では徳島県沖から太平洋に出た途端に大揺れ状態になり、「降ろしてぇ!」という苦しかった思い出もある。
一方で、瀬戸内海を航行する大洋フェリーは揺れることが少なかったが、和洋室で畳の上に座っているとエンジンの振動が凄くて気分が悪くなってベッドに横たわったこともあった。
関西汽船の客船が航行していた当時が懐かしい。2000トンの「るり丸」は古かったが、3000トン級に「くれない丸」「むらさき丸」が登場し、その後「すみれ丸」「こはく丸」「こばると丸」「あいぼり丸」が就航したがその全てに乗船体験がある。
当時の別府と大阪天保山の所要時間は14時間で、出航すると事務長が部屋に挨拶に訪れる慣習があった。
3000トンの船だと揺れることが多く、特に瀬戸内海に入るまでの豊後水道が大変だった。
広島の宇品港から別府で向かう広別航路のフェリーも利用したことがあるが、別府に早朝の5時過ぎに入港し、接岸後6時半まで船内で過ごしてもよいということも知られていた。
四国の八幡浜から別府へフェリーを利用したこともあるが、前日は道後温泉に宿泊していた。
今日の写真は関西汽船「あいぼり丸」を。
日本のフェリーが外国に譲渡されるケースが多いが、韓国で大惨事を起こしたフェリーもそうだったが、前述の「さんふらわー11」もフィリピンに譲渡され、強風によって沈没してしまった事実を知って寂しくなった。
当時は大阪南港から志布志まで14時間。そこから鹿児島港へは4時間で、志布志から車で向かう方が便利なので鹿児島港へ向かう人は少なかったようである。
フェリーを利用して波が高くて大変な目に遭ったことも何度かあった。志布志から大阪南港へ向かう時は出航して5分も経たない内に気分が悪くなり、そのまま大阪南港まで横になったままというのもあったし、大阪南港から宮崎へ向かう「せんとぽーりあ」では徳島県沖から太平洋に出た途端に大揺れ状態になり、「降ろしてぇ!」という苦しかった思い出もある。
一方で、瀬戸内海を航行する大洋フェリーは揺れることが少なかったが、和洋室で畳の上に座っているとエンジンの振動が凄くて気分が悪くなってベッドに横たわったこともあった。
関西汽船の客船が航行していた当時が懐かしい。2000トンの「るり丸」は古かったが、3000トン級に「くれない丸」「むらさき丸」が登場し、その後「すみれ丸」「こはく丸」「こばると丸」「あいぼり丸」が就航したがその全てに乗船体験がある。
当時の別府と大阪天保山の所要時間は14時間で、出航すると事務長が部屋に挨拶に訪れる慣習があった。
3000トンの船だと揺れることが多く、特に瀬戸内海に入るまでの豊後水道が大変だった。
広島の宇品港から別府で向かう広別航路のフェリーも利用したことがあるが、別府に早朝の5時過ぎに入港し、接岸後6時半まで船内で過ごしてもよいということも知られていた。
四国の八幡浜から別府へフェリーを利用したこともあるが、前日は道後温泉に宿泊していた。
今日の写真は関西汽船「あいぼり丸」を。
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