夕子が女将を務めている旅館は日本で有数の温泉地で、年中観光客で賑わっており、50数件のホテルや旅館が存在していた。
そんな中でショッキングな出来事が判明した。後継者がいないところから支配人が社長になると思っていた近くの旅館が経営権を譲渡してしまい、全国的に展開している格安宿泊施設としてリニューアルオープンすることになったからだ。
その旅館の女将である絹江や料理長とも交流があったが、夕子も全く知らなかった出来事で、観光組合からの情報で初めて知ることになった。
スタッフの大半はリストラされることになったが、その多くが仲居だった人達で、この新しい旅館のシステムはチェックインフロントのすぐ横に浴衣のコーナーがあり、自分のサイズに合わせてお客さん自身が選んで部屋へ行き、室内にはすでに寝具がセッティングされているので仲居という仕事が不要となり、リストラの対象になってしまったのである。
夕食も朝食もバイキング形式なので創作料理のような手の込んだ仕事は必要でなく、自分の仕事に誇りを抱いていた料理長も自分から辞職したことを仕入先の人から聞いて現実の厳しさを学ぶことになった。
閉業してからリニューアル工事が行われ、その間に女将と料理長が一緒に夕子に会いに来てくれ、ラウンジでお茶を飲みながら話を聞いたが、どちらも寂しげな表情で掛ける言葉も見つからなかった夕子だった。
料理長の経験からすると受け入れ先はすぐに見つかり歓迎されるだろうが、女将は俗に言われる「雇われ女将」で、後継者のいない高齢夫婦の経営者の下で9年間務めて来ていた歴史があった。
彼女や料理長が譲渡することを教えられたのは契約が済んでからで、それこそ寝耳に水という出来事だったが、社長も長い間病院で闘病生活をされており、女将、料理長、支配人の3人が主体になって運営していたのが事実である。
格安の宿泊料金を打ち出すグループは、女子大生の卒業旅行に歓迎されるだろうが、旅を楽しむご夫婦には強い抵抗感があるみたいでも、何より料金が安いことと、大都市圏から直行の送迎バスを格安で運行していることもあり人気が高く、普通のホテルや旅館に影響が及ぶのは当然のことで、観光組合に加盟している各経営者達は戦々恐々となっており、何度か対策会議も開かれていた。
2人がやって来た数日後、料理長が他府県の温泉旅館の料理長へ迎えられることになった報告に来たが、絹江は慰留されていることを頑なに断り、遣り甲斐や生き甲斐が失せてしまったようで実家の高齢のお母さんの介護でもするからと故郷へ帰ってしまうのでその寂しさは一入だった。
業界の情報誌に変化する状況記事が半年前頃に特集で採り上げられていたが、まさか自分の地域の旅館で起きるなんて想像もしなかったことで、夕子の衝撃が続いていたが、お客様に不快な思いを与えないように振る舞っていた。
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