若くして亡くなるというケースを「夭逝(ようせい)」とか「夭折(ようせつ)」と言うが、その言葉を耳にすると、私の心の中に2人の人物が思い浮かんで来る。どちらも平均的な寿命まで生きておられたらどんな作品をと考えるだけで残念でならず、人の世の「無常」は残酷物語りの「無情」でもあると思ってしまう。
一人は作曲家である「滝廉太郎氏」で、もう一人は詩人の「金子みすゞさん」である。
お2人には奇しくも不思議なつながりがある。「滝廉太郎氏」が23歳で亡くなられた明治36年は、「金子みすゞさん」の誕生された年であり、その事実を知ってから当時の時代背景を思い浮かべることになった。
中学校唱歌の名曲として歌われ続けている「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌として歌われている事実もあるし、リズム感のある「箱根八里」や桜の季節を歌った「花」などは日本人の感性とは別世界のレベルを感じるし、間違いなく天才であったのだろうと想像する。
そんな箱根の山も噴火するのではという問題で大変な状況となっているが、何度か訪れた思い出の地でもある所から早く収束することを願っている。
前にも書いたが、「金子みすゞさん」の詩を知ったのはプレジデントという月刊誌の定期購読からで、そのご仏縁をくださったのはお寺様だった。
「経営者という立場にお勧めの書籍を1年間プレゼントします」というお手紙を頂戴し、それから長年購読することになったのだが、今から40年ほど前の号で「金子みすずさん」と特集が組まれ、掲載されていた彼女の詩に感銘を受けたことを今でもはっきりと記憶している。
詩文の才が優れていることを「錦心繍口」という言葉で表すが、私の愚書「七万歩才」も「七歩の才」という詩文の才が長けているという故事に因んで「万」を増やしたもので、駄文の列記でページ数だけ多い立場からすと垂涎のレベルにあると尊崇するばかりで、この「幸せ列車」にゆかりある函館の「清雅舎」さんのコラム「迷いの窓」にも衝撃を受けたことも懐かしい。
もうすぐ山口県の仙崎に出掛ける予定があるが、「金子みすゞさん」の記念館を再訪する行程も入っている。
前回に行ったのは10年ほど前のことだが、仙崎の地に関して忘れられない体験がある。知人のご主人がご逝去され、お通夜を迎える1時間ほど前のことだった。喪主を務められる奥様から聞かれたのはご主人が仙崎ご出身ということで、間もなく現地から大型バスでご親戚が到着されるという事実だった。
それからしばらくして皆さんが式場に来られたのだが、海産物を製造販売されているというご親戚の方が「参列者のお供養に」と大量の「一夜干し」を持参されたからで、導師を務められるお寺様のご了解を得て返礼品の入った手提げ袋の中に納めたが、誤解される方がおられたらいけないので。司会のコメントの中でさりげなく触れておいた。
一夜干しの量はびっくりするぐらいで、葬儀当日にもお持ち帰りいただいたが、それでも残ったので葬儀委員の方々にお願いしてご近所にお供養として配っていただくことにしたが、経緯についてご説明することも併せてお願いしていた。
それから1周間ほどの間は、「美味しかった」という言葉を多くの方々から聞くことになり、ご遺族の方々が喜んでおられたことも印象に残っている。
今日の写真は仙崎の向かいにある青海島にある「ナツミカン」の原樹で、江戸時代に漂着した柑橘の種から成長し、ナツミカンが全国に広まったそうで、天然記念物となっている。
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