歴史の古い温泉地に夢佳が女将をしている旅館があった。若女将から女将と呼ばれるようになってから4年の月日が流れたが、夢佳は当館の4代目女将となっている。
夢佳の旅館に露天風呂付きの部屋も5室あるが、その内の1室には露天風呂の他に専用の足湯があり、この部屋を指定されて予約が入ることも少なくなかった。
毎月、この部屋を予約されて来られるご夫婦がおられる。いつも運転手付きの黒い乗用車で送迎され、運転手さんが「会長」と呼ばれていたので普通の方ではないようだが、お部屋に参上してもお仕事や役職を話題にすることはこれまでになく、ただ分かっていることは大病を患われて現役を引退され、月に一回夢佳の旅館の足湯のある部屋をご利用されることだった。
少し足を引き摺って歩かれるので後遺症があるようだが、初めてご利用された際のチェックアウト時に「バリアフリーのお部屋もございますから」と申し上げると、奥様が「この人のお気に入りは足湯のあるお部屋」と言われ、その時に毎月第3木曜日を予約されてお帰りにあり、もう6回を数えたのだから半年が過ぎたことになる。
今日はその第3木曜日。またご夫婦がご利用くださっている。交流のある山形県の温泉旅館の女将から届いた立派な「サクランボ」を器に入れてウェルカムフルーツとしてメッセージと共にテーブルの上に置いておいたが、部屋担当の仲居の話によると「わあ、大好きなの!」と喜ばれ、お2人ですぐに食べられたと知った。
夕食時にご挨拶に参上した。襖を開けてご挨拶をと思っていると先に奥様から言葉を掛けられた。「女将さん、あのサクランボ最高に美味しかったわ。有り難うございました。主人も大好物でしてね、毎年山形県の友人から送って貰うのですが、今年は少し早目に味わうことが出来ました」と想像以上に喜ばれた。
夢佳は足湯の温度のことが気になって。「お湯加減に問題はございませんでしたか?」と確認すると、奥様からなぜ足湯のあるこの部屋がお気に入りかを初めて教えていただくことになった。
「主人はね、大病を患った時に半身不随になって辛いリハビリ生活で何とか杖を手に歩けるようになったのですが、知覚障害だけはどうしようもなく、ずっと南極の氷の海に足を入れているように冷えを感じており、足湯に入ると極楽で至福のひとときと喜んでいるのです」
このご主人のお食事は、締めはお茶漬けと決まっており、ご持参されている永谷園の「お茶漬け海苔」のワサビを全て取り除かれ、器用に海苔とあられだけで3袋分で食べられるのだからびっくりだが、ワサビを取り出すテクニックが感心するレベルで、かなり昔からの慣習のようだ。
「面白いでしょう。主人は昔からこれが定番でしてね、3袋なかったら機嫌が悪くなるのだから気を付けているのです」と言われたので、女将の夫が好物の三重県民で有名な「田舎あられ」のことを話したら興味を抱かれ、夢佳は自室の台所の棚にあった一袋を持参して部屋に戻って味わっていただいたら、ご主人が「これ、いける。どこで買えるの?」と質問され、ネットで申し込んで購入していることを伝え、チェックアウトの際に注文先の電話番号が入ったHPをプリントアウトしておくことを提案したら喜ばれた。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、あられで盛り上がる」へのコメントを投稿してください。