旅館のロビーや廊下を歩くと「お香」の香りが漂うことも少なくないが、翔華が女将をしている旅館も先代の時代から香りに拘っており、先代女将がコレクションしていた沈香や伽羅が多くあるので有効に活用している。
あるお客様を部屋へご案内した仲居がフロントに戻ると、今のお客様は香の世界に造詣深いようで「この香りは伽羅だが、女将さんの選択か?」と聞かれたと報告があった。
ひょっとしてお寺様?なんて思ったが、玄関でお迎えした時にそんなイメージは全くなく、ご夫婦というこのお客様のことが妙に気になる翔華だった。
廊下に置いている香炉は目に留まらないように花瓶の後ろに隠しているが、そのお客様は花瓶の所で立ち止まられたようで、仲居からその話を聞いてますます興味を抱くようになった。
やがて夕食の時間がやって来た。部屋係の仲居がお世話をしているが、続く料理を厨房からワゴンで運ぶのを翔華が手伝い、少し早目にご挨拶に参上することにした。
旦那様は浴衣姿で奥様は浴衣の上に羽織を召されている。不思議なことに床の間を背にされているのは奥様の方で、どうして?と思っていたらご主人が「うちはかかあ天下でね、いつもこうしているので気にしないように」と言われたら、続いて奥様が「こんな変なことばかりして他人様を驚かせるのが好きでしてね、私も恥ずかしく思っているのですが聞いてくれないのです」と返すと、すぐに「レディーファーストだよね、女将さん」と言って笑われた。
かなり旅慣れた感じのするご夫婦である。そこでまずは気になっていたお香の香りに「伽羅」と気付かれたことを話題にした。
「仲居さんに質問したら女将さんの拘りと言われていたが。かなり上質の伽羅で落ち着いた澄んだ香りがこの旅館のイメージに見事に合致していたよ」
翔華はこの言葉が嬉しかった。これまで何年も続けて来たことだが、初めて気付かれたことが起き、ゆっくりと聞きたいと思う上質な一級品だと褒めてくださったからだ。
「香の十得や香木の香りを聞く聞香(もんこう)のこと、また香りを聞き分ける組香もあるけど。源氏香を嗜まれる人もおられるのだからこの世界は深いしねえ」
その言葉からこの人物が香に関する知識が高レベルであることが判明。まだ60歳には見えない方なので現役で何かのお仕事をされていると思い、「失礼なことを伺いますが、差し支えなかったらどのようなお仕事を?」と質問してみた。
「何の仕事だと思いますか? 自営業ですが数十の業種を言われても当たらないでしょうね。びっくりされる仕事に従事していましてね。もちろん『香』に関係ありますよ」
如何にも楽しまれるようにそう言われたが、お寺さんでないとひょっとしてと思って発言したのが「お仏壇のお仕事ですか?」で、「実は、葬儀の仕事をしています」と教えていただいてすっきりとした。
「大変なお仕事ですね?」と返した翔華だったが、葬儀の仕事という世界は全く分からず、ただそう答えるしかなかった言葉だった。
その人物は、そんな翔華のために様々なシチュエーションを交えながら、分かり易く面白く説明くださり、いつの間にかその部屋で予想もしていなかった時間を過ごすことになった。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、葬儀の仕事を聞く」へのコメントを投稿してください。