ローカルなイメージの私鉄が走る終着駅、そこに知られる温泉地があった。古くから十数軒の旅館が存在しており、高速道路のインターチェンジからも近いという立地条件から週末は予約を取るのが難しいほど高い人気があった。
直子が女将を務める旅館はその中の1軒だが、数年前に旅館の一人息子と結婚したことから若女将となり、着付けも出来なかった自分がいつも和服で過ごしていることが信じられない思いを抱いていた。
幼稚園に通う子供の存在があるが、子供の相手は夫の両親が担当してくれて随分と助かっている。
旅館に隣接するのが両親の自宅で、直子夫婦は旅館内の離れを住居としているが、仕事を終えた時間には子供が寝ている時間なのでそのまま両親の家という日課が続いている。
直子が事務所で当直してくれる担当スタッフと打ち合わせが終わると自室である離れへ戻るが、就寝前に必ずしなければならないことがあり、夫の机の上にあるパソコンを開けた。
まだ携帯電話でインターネットが出来ない時代だったが、利用されたお客様の感想などを気軽に書き込んでいただこうと、旅館のHPの中に「若女将へ」という掲示板を開設していたのである。
日課となっている確認だが、日付が変わる前にチェックをして返信しなければならない書き込みがあれば出来るだけ対応するようにしていた。
そして、その日。机に腰を下ろしてパソコンの掲示板を開けたのだが、びっくりする書き込みが入っていた。
「今日、お世話になっています。夕食も繊細の味付けで、和風旅館らしいメニューに満足。清潔な大浴場も素晴らしく、また朝風呂に入ろうと思っています。これで大阪から近ければ最高ですが」
それは、この日に宿泊をされているお客様が書き込まれたもの。こんなことは初めてのことだが、褒めてくださっていることが何より嬉しい。きっとノートパソコンを持参されているのだろうが、朝食時にお礼を言わなければと事務所に戻って宿泊者名簿を確認。
その人物が大阪から来られていることが分かっていたので宿帳で確認したら、一組だけ大阪のご夫婦がご利用くださっている。住所、氏名、電話番号、年齢の記載はあるが、職業欄は空白になっている。何か気になって仕方がなく、指名をメモして離れの自室へ戻り、パソコンでネットにつないで宿泊者名を打ち込んで検索してみた。
直子の直観は当たっていた。何か普通の人ではないような感じがしてならなかったが、検索でヒットした件数にびっくり。何と3000件以上もヒットしていたからである。
ある業界で特別な立場にある方。それはその方のことを他の人物が紹介されていたことから判明したものだが、写真が掲載されているページを見てフロントへチェックインに来られた際の会話を思い出した。
到着される30分ほど前に「空いていますか」という予約電話があった方で、高速道路を走行中に濃霧が発生して危険と判断されて宿泊されることになったと話されていた。
直子の旅館の朝食はバイキングではなく部屋食である。そんなところから朝食時にお礼のご挨拶に参上しようと考えていたが、この出来事を夫に伝えると喜び、一緒にお礼に行こうということになった。
ふぃく
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