自分の旅館のスタッフ教育に熱心に取り組んでいた女将の桜子は、様々な人材教育に関する書物も読んでいた。
そんな中に興味深い事例が二つあって印象に残っている。一つは新幹線の車内販売でずば抜けた売り上げを記録している女性と、ナイターが行われている球場で販売されるビールの売り子の信じられない数量の差異で、それらが個人の有する能力の結果であるという分析だった。
そんなことを学んで1年ほど経った頃、ある団体のお客さん達が会社の慰安旅行としてやって来た。カタカナの社名でどんな職種か分からなかったが、女性が18人と男性16人も来られるので大歓迎だった。
大型バスが玄関に到着したので迎えに出たが、バスのフロントガラスも同じカタカナの社名となっており、想像していた年齢より若い人達が多かった。
桜子のこれまでの体験からすると、こんな団体のケースには「全額会社負担」「それぞれ個人負担」「一部会社負担」などがあるが、この団体はかなり景気が良さそうで、桜子の旅館を選択されたことからもそれを推察することが出来た。
この団体さんの職種が判明したのは大広間で行われた宴会の時。舞台の上には会社名を書いて歓迎と大きな看板を掲示いておいたが、宴酣という頃、桜子がフロントで伝票の整理をしていると40歳ぐらいの男性がやって来て、「女将さんですね。今日はお世話になっています」と丁寧に挨拶をしてくれたので恐縮。彼は酒が飲めないので宴会が苦痛だと話し、仕事が大手のグループに属するパチンコ店で、彼が店長であることを教えてくれた。
彼は話しが好きなようで、ずっと悩んでいるのがスタッフ教育だそうで、つい最近に個人の能力の「差異」がどうにもならないことを理解した体験があり、「個人も『才』なのですかね?」とぼやくように悩みを打ち明けてくれた。
桜子はそれを聞いて思い出した書物の中にあった新幹線の車内販売と球場の売り子のことを話したら、彼は急に真剣な表情になり「それなのです!」と語り始めた。
「当店はかなり大型店舗で、店内で4人の女性スタッフにワゴンサービス販売をさせているのですが、一人だけ倍以上売り上げるので担当させている部署がそんなお客さんが多いのかなと思って担当コーナーを入れ替えたら、やはり同じ結果になるので何か要因があると店内をフォローしている防犯カメラの映像を観ていたら、彼女だけは歩くスピードがゆっくりで、プレー中のお客さんに存在が気付かれる率が高く、コーヒーやジュースの販売個数が異なることが判明し、他のスタッフにそんなテクニックを伝えたのですが、それでも彼女だけは突出しているのです」
その体験談を聞いて思い浮かぶことがあった。新幹線のトップ記録を有している女性スタッフがインタビューで語っていた言葉で、「私は常にゆっくり移動しながら、自分がここに来ていますよと存在感が伝わるように考えています」というものだった。
「やはり旅館の女将さんは勉強されていますねえ」と言われて嬉しくなった桜子は、事務所に入って本棚からその内容が掲載されている本を彼にプレゼントした。
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