季美が女将をしている旅館は80室ある規模だが、古くから旅行会社との特別な関係があり、リーズナブルな宿泊料で提供しているからか、客室の稼働率はこの温泉地では突出しており、大半の日が満室という状況だった。
その日のチェックアウトのお客様を全てお見送りし、ホッとしながら大好きなココアを飲んでいると近くの小料理屋の女将が来館した。
彼女とはもう20年来の交友がある。互いに愚痴を言い合う仲で時折に夜遅く彼女の店で暖簾を下ろしてから2人で飲んでいることもあった。
何時も元気なのにその日は暗い表情をしているので気に掛かり、「何かあったの?」と聞くと泣きそうな顔をして信じられない体験談を話し始めた。
「こんなことってある? 何でこんなことになるの?」
彼女は朝から謝罪に行って来たそうで、その出来事というのはまるで神様の悪戯というような考えられない事件で、ちょっとした隙間から発生してしまった不運な展開とも言えた。
彼女の店のカウンターには「七味」や「コショー」の入った小瓶が置かれているが、事の発端はこの「七味」から始まっていた。
「七味だけど神社の境内でいつも開店している露店があるでしょう。あそこで『一味』と『七味』を袋入りで買って来ているのだけど、それが私のミスからとんでもないことになってしまったの」
そこまで話した時、彼女はバッグからハンカチを取り出して涙を流したが、それが悔し涙であることがすぐに理解出来た。
カウンターに置いてある「七味」の小瓶は中身が減れば補充をしていた訳だが、その小瓶に付いていた賞味期限切れまで気付かず、不運なことにややこしい人物に指摘されて事件になったというものだった。
「中身を補充していると説明しても納得されず、『客にこんな賞味期限の切れた物を出して』とびっくりするほど叱責されたの。そこで昨日に弥栄屋さんで菓子箱を買って持参して謝罪して来たのだけど、そのお菓子の賞味期限が切れていることが分かり、『これは嫌がらせか?』と朝から抗議の電話が掛かって来たので今まで2時間も説教されて来たの』
弥栄屋というのはミニコンビニみたいな店舗で、パンとオニギリは人気があるが、菓子箱なんて滅多に売れることはなく、そんな物を彼女が悪気なく買ってしまったことが火に油という事態に進展してしまったというものだった。
相手は地元の人物なのだが、近所の人達から変人として疎まれていることもあり、数年前に奥さんに先立たれ独りで生活をされているそうで、もう70歳を超えている人だった。
「店に来られたのは2回目だったの。おでんで日本酒を1合だけ飲まれていたのだけど、よりによって『七味』がお好きだそうで、振り掛けようとすると出難かったので確認したら発覚ということになったの」
事情を分析してみると見えて来たことがある。「七味」の小瓶が詰まっていなかったらスルーとなっていた筈だし、何れは誰かに発見指摘されていたかもしれないが、彼女が見事に貧乏籤を引いてしまったという出来事である。
謝罪に行く手土産に購入した菓子箱まで賞味期限が切れていたとはそれこそ運命の悪戯だが、相手の心情を考えると憤慨されることも理解出来るものである。
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