世の中がネット社会になって様々なことが急変している。各ホテルや旅館がHPを有することも当たり前になっているが、観光情報をネットで入手される方が増え、宿泊されるお客様がパソコンやスマホを持参されることも増えたが、携帯電話でネットにつながる時代になったので館内や客室のネット環境を「Wi-Fi」可能にしなければいけなくなった。
山間部の辺鄙な温泉地にある美代の旅館だが、その世界に詳しい事務所スタッフの提案で1年ほど前から環境を整えていた。
部屋食での夕食が始まった頃、1人の客室担当の仲居が美代のいるフロントにやって来た。
「女将さん、ちょっと考えていなかったことになりましてご相談に参りました」と深刻そうな表情でそう言うのでびっくり。
「お食事をワゴンで運び込もうとして襖を開けたら、ご夫婦のご主人がテーブルの上にパソコンで何か打ち込んでおられるみたいで、こんな温泉地に来られてもお仕事ですか?と言ったのですが、すぐに奥様が『この人、趣味が囲碁でしてね、ネットで対戦しているのです』と言われたので、囲碁ですか、当館の料理長はマチュアですが4段ですよとつい言ってしまったのです」
ご主人は、「頼むから料理長と1局打たせてくれ」と懇願されていると言われた操舵がむげに断る訳に行かず、取り敢えず女将に相談してみると返して来たそうだった。
こんなご要望があったら何とかしなければお客様の不満足が明白。すぐに料理長の所へ行って事情を説明。何とかお願い出来ないだろうかと相談したら、「仕事も終わっているので1局だけお付き合いしますよ」と承諾してくれた。
それを仲居に伝えると嬉しそうに担当の部屋へ戻って知らせに行ったが、女将はフロントスタッフに命じて碁盤と碁石を大広間に準備させた。お客様のお部屋に参上して対局すると「もう一局」となって長くなる可能性があるところから大広間にしたのだが、1時間ほど経つと食事を終えられたお客様がフロントにやって来られ、美代の案内で大広間に行った。
すでに料理長が来ていた。ご盤を挟むように座布団が2枚セッティングされているが、将棋は胡坐を掻いて打つこともあるが、囲碁は正座が似合うなんて料理長が言っていたことを思い出したが、いつも着用している白い割烹着は脱いでいた。
「いやあ、高段者の方に打っていただけるとは光栄で嬉しいことです」と挨拶を交わし、碁盤を目にしてご主人が驚かれた。
「これ、榧の6寸盤ですね。こんな碁盤で打てるなんて夢のようです」と言われたのだが、
この碁盤は料理長のお父さんから受け継いだ形見で、かなり高段者だったお父さんのご自慢の逸品だった。
碁盤には柾目や板目という言葉もあるが、樹齢の長い榧の大木から切り出された名品ともなると数千万円という高価な物もあるし、大きなハマグリから抜かれた立派な白石なら1個8万円もする物もあるそうで、180数個あるのだから驚きである。
お客さんは黒石を持たれて四隅の星に置かれた。料理長が4段ということから4目のハンデキャップということになるが、料理長が打った1手目の白石を目にしてまた驚くことになった。
「随分年期が感じられますね。打ち込まれて薄くなってハマグリの柄が出て味があります。こんな見事な白石は初めて見ました」
碁石も打つことで磨り減って行くことも事実で。厚かったハマグリの碁石も薄くなってそれぞれに柄が出て来ることに味わいを感じる人も多く、こんなことを知っているこのご主人もかなりの打ち手ではないと思った料理長だった。
しかし、対局が始まって30分程経った頃、あっけなく勝負が決し、白番料理長の忠押し勝となった。
「もう1局お願いします。今度は五目で」と碁盤の中心にある天元に一目を増やして2局目が始まったが、美代は果たして何局ぐらい続くのだろうかと思いながらも料理長が勝ったことに安堵していた。
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