都内から信州へ向かうJRの特急停車駅のすぐ近くの温泉地に尚代が女将をしている旅館があるが、尚代の実家は名古屋市内にあり、卒業した大学も名古屋市内にあった。
夫はこの旅館の後継者だが、知り合ったのはゼミから交友が始まったもので、懐かしい話だが、当時は若旦那と呼ばれており、彼が卒業して実家の仕事をするようになってしばらくの頃、仲のよい女性グループ4人を彼の旅館へ招待してくれたことがあった。
その時に先代社長や先代女将であった両親を紹介してくれ、お二人が尚代のことを気に入ってくれ、しばらくするとゼミの教授を通じて正式なお見合いに進み、結婚式が済んでハワイへの新婚旅行から帰国するとすぐに若女将として旅館で働くようになり、先代女将の厳しい指導を受けていたが、数年前に先代女将が入院をして帰らぬ人になってしまい、先代社長と夫からの命で若女将から女将と呼ばれるようになった。
先代女将は随分前から難病で苦しんでいいたことも知ったが、死期が近いことを悟っていたことからか。尚代に対する指導教育の厳しさは言葉で表現出来ない辛苦があったが、それが先代女将の「終」の覚悟の焦りの行動だったと理解し、毎朝お仏壇に手を合わせてから仕事を始めるようにしている。
2年前のことだった。今も交友関係にある大学時代の友人夫妻から頼まれ、定年退職の記念としての九州旅行の行程を組む手伝いをしたのだが、何度か行ったことのある熊本県内の温泉地のことを推薦したが、三角からフェリーで渡る島原半島にある雲仙に行ったことはなく、雲仙、嬉野、武雄温泉はいつもお世話になっている旅行会社の部長にお願いをして選択して貰った。
中部国際空港へ戻って来る予定の日に空港へ迎えに行った尚代だが、予定の便に搭乗しておらず、<おかしい?>と思って電話を掛けたら、雲仙の旅館が素晴らしかって手毛尾温泉からもう一度雲仙に行って宿泊し、予定外に次の日に戻って来ることが判明。仕方なかく空港内のセントレアホテルで宿泊した尚代だった。
次の日に長崎からの全日空の飛行機を迎えたが、ボンバルディア社のプロペラ機で「怖かった」と笑っていたが、名鉄線の中で聞いた雲仙の旅館の話は同業の立場としてとても印象深く、何時か行こうと思っていたが、来月に夫と二人で行くことにした。
その旅館は雲仙の「宮崎旅館」で、尚代がお客様達から伺う「これまでのご旅行で印象に残っているのは?」という話題の中で何度か耳にした旅館で、もっと早くに行っておくべきだったと思っている。
尚代は若女将のの時代からあちこちへ旅行に出掛け、プロが選ぶホテルや旅館として採り上げられた所を利用するのが楽しみで、先代女将から「体感に勝ることなし」と指導されていたこともあり、お客様の立場で旅館サービスを学ぶことや、旅行会社の主催する研修会や講演会にも積極的に参加しており、全国各地の旅館の女将達との交流もあるが、九州では鹿児島、宮崎、熊本、福岡、佐賀県の温泉旅行の体験はあるが、長崎県内の体験はなく、今回は雲仙、嬉野、小浜と立ち寄りたいと行程を考えている。
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