旅館の部屋には一部に洋室もあるが、大半は和室で床の間の存在がある。
後継者に嫁いで若女将となり、やがて女将と呼ばれるようになった順子だが、先代社長が骨董を収集していた趣味があり、床の間ににはそこそこの花瓶などが置かれていた。
先代社長と先代女将に教えられたことだが、お客様にも様々だが、本物を理解できる方もおられることを知り、何事も外見で勝手な想像をしたり判断を下したりしてはいけないという指導を受けていた。
この温泉地で「中学生以下のお客様はご遠慮いただいています」という姿勢を打ち出しているのは順子の旅館だけだったが、それらは先代社長が床の間の置物のことも考慮して決定していたと言われている。
そんな旅館で想像もしなかったハプニングが起きた。担当の仲居が部屋食の夕食の片付けをしていた時、洗面所で歯を磨いて来たご主人が床の間のまえに置かれていた座布団に躓かれて横転され、床の間に置かれてあった花瓶を損壊させてしまったのである。
仲居達も各部屋の床の間の置物が半端じゃない値打ち物と聞いており、すぐに血相を変えて順子に報告にやって来たが、取り敢えずその客室に参上することにした。
エレベーターを降りて廊下を歩いている時に「どのような言葉から」なんて結論も出ずに「失礼いたします」と襖を開けたが、ご主人の奥様も表情が固まってしまっており、大変なことを仕出かしてしまったという雰囲気に包まれていた。
「お怪我はございませんでしたか?」「お身体を傷められたこともございませんか?」と自然に声を掛けたら、「申し訳ないことをしてしまいました。身体も大丈夫ですし、怪我も一切しておりませんのでご安心ください」と返された。
床の間の花瓶は接着剤で修復不可能な状態になっている。それは報告にやって来た仲居から聞いていたので驚かなかったが、ご主人が「弁償しますから金額を」と言われて返す言葉が見つからなかった。
どの部屋にも30万円以下の物がないというのがこの旅館の誇りだったが、お客様にそれを伝えて弁償させることは難しいこと。また、「高額な物ではございませんのでご心配なく」との解決で済ますことも得策でない。
そこで女将がとっさに知恵を絞って答えたのが次の言葉だった。
「お客様、どうぞご安心ください。こちらの花瓶はそこそこの値打ちのある物ですが、当館は全ての備品に損害保険を掛けておりますので。保険会社が保障してくれますから」
損害保険会社と契約をしていることは事実だった。お客様が大浴場で転んで大怪我をされたり、提供した食事で食中毒事件が発生した時に対応可能とは知っていたが、床の間の備品については適用されないのではと思っていた。
ご夫婦はただ恐縮するばかりだったが、仲居は怪訝そうな表情をしている。彼女も備品まで適用されるのだろうかという心配だったが、果たして適用対象なのだろうか?
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